投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月 2日(日)10時38分54秒     通報
■ 「人間を軽賤する」僭聖増上慢

斉藤: 次が僭聖増上慢です。「僭聖」とは「聖者のふりをしている」ということです。
「人里離れた静かなところで、ぼろきれをつづり合わせて作った衣を着て、自ら真実の道を修行していると思い込んで、人間を軽んじ賤しめるものがいることでしょう」(第四行)

名誉会長: 「人間を軽賤する」。そこに僭聖増上慢の大きな特徴がある。民衆への蔑視です。一切衆生を尊極の宝と見る法華経の正反対です。だから、「法華経の行者の敵」とならざるを得ない。

須田: 反逆者の提婆達多もそうでした。彼を描いた小説には、こんな描写があります。
「提婆達多は人間を軽蔑し、厭悪した。彼は自らあらゆる醜悪なる人間性の所有者、経験者であったがために、凡ての人間は彼の眼にさながら汚穢なる五臓六腑のままに見えた」(中勘助著『提婆達多』、岩波書店)。

斉藤: 「人間を軽賤する者」(法華経 p441)の的確な描写ですね。

遠藤: 次の一行は、さらにその仮面を暴くものとなっています。
「利得に執着し貪るために、在家信者のために教えを説き、六神通を得た阿羅漢のように世の人々に尊敬されるでしょう」(第五行)。

名誉会長: そう。自分が“もうける”ために、仏法を利用するのが僭聖増上慢なのです。それでいて、世間の人々から「聖者」のように仰がれている。苦悩の人を救おうとか、広宣流布に命を捧げていこうなどという心はない。宗教利用の偽善者です。
日蓮大聖人は、自分の名聞名利のために仏法を説く人間を、「食法がき」(御書 p1111)と呼ばれている。仏法の世界で、うまく泳いでいこう、人から尊敬されよう、人気を得よう、喝采を浴びよう。そういう卑しい心です。

須田: 大聖人の仏法を道具に、遊蕩にふけり、信徒を食い物にしてきた日顕宗など、「食法餓鬼」そのものですね。