投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月 1日(土)18時08分53秒     通報
■ 三類の強敵

須田: では、三類の強敵について記されている「二十行の偈」を具体的に見ていきたいと思います。これらの偈は、いずれも菩薩の誓いの言葉です。

斉藤: 宝塔品で説かれた六難九易の「六難」が、現実にはどういう形で現れるのか —- そのことを説いたのが、「二十行の偈」であるとも言えます。

須田: 「二十行」と言っても、『法華経並開結』では、四十行になっていますが(笑い)。四句からなる一偈を一行として二十行になっているわけです。

遠藤: 二十行のうち、次に述べるところからが、三類の強敵への言及になります。
すなわち、「多くの無智の人々が、(私たちの)悪口を言ったり、罵ったりしても、また刀で切りつけ杖で打っても、私たちはみな耐えていきます」(第二行)。この文は、妙楽大師が示したように、三類の強敵のうち、「俗衆増上慢」を明かしたところです。

須田: 仏法に無知な在家の男女が、法華経の行者に対して「言論の暴力」と「肉体的暴力」を加えるということです。

名誉会長: ひと口に「言論の暴力」というが、悪口罵詈は、一回や二回なら耐えられます。しかし、大勢の人々から絶えず悪口罵詈されたら、その圧迫は筆舌に尽くしがたい。
アラン(フランスの哲学者)は「到るところで絶えず呪詛を加えられたら、それに抵抗し得る人間は、恐らく一人もいないであろう。呪詛された人は、自分の滅亡に向って走ってゆく」(アラン著『定義集』、森有正訳、みすず書房)と言っている。
本当にそうだと思う。直接に被害を受けた人でなければ、わからないでしょう。しかし、それでも悠々と、人々を包容しながら前進していくのが、真の菩薩なのです。

遠藤: 俗衆増上慢は、仏法の高低浅深については何も知りません。なのに迫害するのは、ひとつには、第二の道門増上慢、第三の僭聖増上慢に動かされているのですね。

斉藤: 自ら真実を見極めようとせず、権威によりかかって、正法に敵対してしまう。そこに大きな特色があるように思われます。

名誉会長: 権威への盲従だね。自らは正邪を判別する力がないために、権威に寄りかかって、動かされてしまう。だからこそ、民衆を賢明にする以外にない。

遠藤: 次は道門増上慢です。「悪世の中の比丘は、邪な知恵があり、心が曲がっており、まだ悟りを得ていないのに得たと思い込んで、自身に執着する心が充満しています」(第三行)と。

須田: これは出家者であり、「邪智」にして、心が「諂曲」であるところに特徴があります。

斉藤: 仏法について勉強してはいるが、あくまで「邪智」に過ぎない、と。「諂曲」とは、強い者に対しては、自分を曲げて、へつらい、ペコペコする。弱いとわかると、威張る生命です。

須田: 少しばかり仏法を知っているために、かえって質が悪いですね。真実を覆い隠すだけでなく、仏の教えを、自分の都合のいいように平気でねじ曲げてしまう。

名誉会長: だから、もっと勝れた教えがあると言われると、喜ぶべきなのに、かえって怒りだす。自分より勝れている人と法を、素直に尊敬できない。「慢心」です