投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月 1日(土)12時16分12秒     通報
名誉会長: 大聖人が「竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす」(御書 p223)と仰せのように、提婆達多品の竜女成仏は、竜女だけではなく、一切の女性の成仏を表している。竜女は、その代表であり、象徴です。
ところが、代表の例を聞いて、「あ、自分も同じなんだ」と、ぱっとわかる人もいれば、ぴんとこない人もいる。だからこそ、具体的な一人一人への励ましが大事なのです。
総論と各論の関係と言おうか。大勢を相手にした会合だけでは、全員が心の底から納得し、決意することは難しい。一人一人へのこまやかな配慮がどれほど重要か。むしろ、それが「主」です。学会もこの原則を貫いてきたがゆえに、今日の発展があるのです。

斉藤: 摩詞波闍波提比丘尼と耶輸陀羅比丘尼の二人は、釈尊にとっては身内です。身内の人への授記が最後に行われたというのも意味があるように思えるのですが。釈尊の実子でである羅ゴ(目へんに侯)羅(ラーフラ)、従兄弟である阿難(アーナンダ)も、十大弟子の中では、やはり最後に授記されています(授学無学人記品 第九章)。

名誉会長: 肉親に対する教化は、それだけ容易ではないということではないだろうか。むろん、釈尊にとっては一切衆生が平等です。血のつながった親族だからといって、特別扱いするわけではない。だから、かえって難しいとも言えるのです。
しかし、最後は必ず成仏の道に入るのです。その原理を示しているととらえるべきでしょう。ゆえに、両親や夫や奥さんがなかなか入会しない、あるいは子どもが信心に立ち上がらないからといって、焦る必要はありません。
大聖人も「この功徳は父母・祖父母・乃至無辺の衆生にも・をよぼしてん」(御書 p1231) —- この功徳は、あなたの父母・祖父母、さらに無辺の衆生にも及んでいくでしょう —- と仰せです。自分がしっかりしていれば、すでに道は開かれているのですから、安心していい。太陽はひとつ昇れば、全部を照らしていける。自分が一家・一族の太陽になればいいのです。

斉藤: 女人への授記が終わると、菩薩たちは、釈尊の前に進み、合掌します。そしてこう思う。「もし仏が我々に、法華経を持ち、弘めよとご命令になったら、仏の教え通りに、この法華経を弘めよう」。ところが仏は黙然としている。「仏は黙っておられる。何も命令してくださらない。我々は、どうしたらいいんだ」

須田: ここで菩薩たちは、心に決めるのですね。「仏の御心にお応えしよう」「自分の本来の願いに生きよう」と。そして声に出して誓います。「私たちは世尊が入滅された後、悪世の中で、十方世界に、この法華経を弘めてまいります」と。

名誉会長: 十方世界への弘教とは、経文では「十方世界周旋往返して」(法華経 p440)とあるところだね。正法の弘通のためなら、どこへでも行こうという決心にあふれている。
この地球の広宣流布も、「全世界を何度も何度も駆け巡る」行動があって、初めて現実に進む —- この決心で私は、世界広布の道なき道を切り開いてきたつもりです。あとは、後に続く諸君がどうその道を広げていくかです。

須田: はい。私も何度か海外に行かせていただきましたが、現地でSGI(創価学会インタナショナル)の発展を目の当たりにするたびに、“世界広宣流布”のうねりを実感しました。ここまで築くのにどれほど大変であったかと、心を揺さぶられました。

遠藤: 弟子たちの誓いの真剣さ、勢いを表すのが、有名な「師子吼を作して」(法華経 p440)の経文です。大聖人は、こう仰せです。「作師子吼」の「師」とは「師匠が授けるところの妙法」。「子」とは「弟子が受けるところの妙法」。そして「吼」とは「師と弟子が共に唱える音声」。

名誉会長: 師弟不二の行動です。

遠藤:「作」とは「おこす」と読みます。「師子吼をおこすとは、末法において、南無妙法蓮華経をおこすのである」(御書 p748 趣意)と。

名誉会長: 「おこす」とは「能動」です。だれかに言われて、やるのではない。「受け身」では師子吼にならない。だから釈尊は、黙って弟子を見つめたのです。師匠は吼えている。あとは、弟子が吼えるかどうかです。それを師匠は、じっと見つめて待っている。

斉藤: 梵本(サンスクリット本)では、勧持品の品名は「絶えざる努力」となっています。これも弟子の誓いを表しています。

須田: 勧持品は、まさに“弟子の誓い”の章なのですね。

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勧持品から
「濁劫悪世の中には 多く諸の恐怖有らん 悪鬼其の身に入りて 我を罵詈毀辱せん 我等仏を敬信して 当に忍辱の鎧を著るべし 是の経を説かんが為の故に 此の諸の難事を忍ばん 我身命を愛せず 但無上道を惜しむ」(法華経 p442)

濁った時代の悪世の中には、多くのさまざまな恐怖があるでしょう。悪鬼がその身に入った者が、私をののしり、そしり、はずかしめるでしょう。しかし私たちは、仏を敬い信じて、必ず忍辱の鎧を身につけます。そして是の経を説くために、これら多くの困難を耐え忍びます。私は、我が身命に愛着しません。ただ仏法という無上道をこそ惜しむのです。