2015年8月3日 投稿者:KS部OB 投稿日:2015年 8月 3日(月)23時11分31秒 通報 【全国代表協議会】(2006・6・27) 「再会は人生においていつでも愉快なことである」(森下修一編訳『周恩来選集』中国書店) これは、中国の大指導者・周恩来総理の言葉である。 きょう(6月27日)は、全国代表協議会の皆さまと、このように元気に再会することができた。私はうれしい。 本当にありがとう!(大拍手) 戸田先生は、ご自身のそばで戦うリーダーに厳しく語られた。 「本陣の幹部の使命は、日本国、そして全世界への広宣流布の原動力となることである。広宣流布に走りゆく同志のために、労を借しまないことである。 そしてまた、本陣の幹部は、全学会を支え、全学会員の模範となって、すべての法戦を、勝利、勝利と決定させゆく、力ある指導者の集まりでなければならない」 戸田先生は、このようにも言われた。 「本陣のリーダーは、会員に尽くす先兵である。全責任をもって、広宣流布の人材と組織を護り、発展させゆく使命の人である。賢明で、力ある、模範の存在として選ばれた、広宣流布の闘士なのである」 さらに先生は叫ばれた。 「本陣のリーダーは、同志のため、学会のため、令法久住のため、不惜身命の実像を示してゆかねばならない。 その黄金の魂を持った死身弘法の指導者でなければならない」 すべては、リーダーである皆さん方で決まる。 その意味で、戸田先生の遺言のご指導を、そのまま伝えさせていただいた(大拍手)。 イタリアSGI(創価学会インタナショナル)のナカジマ理事長から連絡があり、6月17日、ルネサンス期の面影を残す歴史と伝統の街チェルタルド市に、盛大に「戸田城聖庭園」が開園した(大拍手)。 式典では、戸田先生が好きだった「同志の歌」も演奏された。 この庭園は、市の駅前にある。花や緑に包まれ、噴水や彫刻が設置された市民の憩いの広場である。 園内の銘板には、戸田先生の事績と言葉が刻まれている。 オープニングに出席したアンドレア・カンピノーティ市長は、次のように力強く開園を宣言された。 「わが市は、西暦2000年に、池田会長を名誉市民として迎えて以来、イタリアSGIとともに、文化・教育を促進してまいりました」「わが市の中で一番、人が行き来するこの場所を、『戸田城聖庭園』と命名し、人間主義の哲学を絶えず思い出す庭園として、今、生きている私たちのために、そして未来の世代のために開園します」と。 イタリアには、初代会長の名を冠した「牧口常三郎平和公園」(カプライア・リミテ市)や「牧口常三郎通り」(パッシニャーノ・スル・トラジメーノ市、ステア市)がある。 また、市長も触れてくださっていたが、これまで私は、チェルタルド市をはじめ、イタリアから「43」の「名誉市民」の称号を拝受してきた。 すべては、“良き市民”として信頼と貢献の活動を展開するイタリアSGIの友のおかげである。心から感謝申し上げたい(大拍手)。 〈さらに名誉会長には、900年の歴史を誇る世界最古の総合大学、イタリアのボローニャ大学から、「博士」の証である「ドクター・リング」が贈られている。 また、イタリアの最高峰の勲章の一つである「功労勲章 グランデ・ウッフィチャーレ章」が文学・芸術などの分野におけるイタリアへの功労、社会的な博愛と人道の活動などを讃え、授与されている〉 イタリアは、青年部も立派に育ってきた。現在、イタリア青年部長を務めるタミコ・カネダさんは、創価女子短期大学の出身である。 あの国にも、この国にも、“創価の庭”で薫陶を受けた逸材が、光り輝いていく時代に入った。本当にうれしい! 後輩の育成 ── この一点が大事だ。 広宣流布も、令法久住も、要するに「人」で決まる。「新しい人材」が出ているかどうかである。 威張ったり、自分勝手な振る舞いで、後輩が伸びていくのを抑えつけるような先輩ではいけない。後輩が伸び伸びと活躍できる舞台を用意してあげるのが、先輩の役目である。 戸田先生は、よくこうおっしゃった。 「内外ともに激動の最中であるが、今こそ、君たち青年が勉強しておかなければならない時だ。 僕が舞台はつくっておく。新しい平和の戦士となって、その舞台で活躍するように」と。 私も、戸田先生と同じ気持ちで、青年のために、後輩のために、体当たりでぶつかり、一つ一つ手を打ち、道を開いてきた。 ともあれ、多くの困難を乗り越え、勝ち越えて、海外は見事に発展している。とくに、次の世代を担う後継の人材が陸続と育っている。 この点では、海外のほうが、日本より進んでいるのではないか。 「日本も負けるな!」という激励の意味も込めて、今後も海外の友の活躍を順次、紹介していきたい(大拍手)。 6・30「学生部結成記念日」、おめでとう! 学生部は、明年で結成50周年を迎える。 本日は、全国ならびに各方面の男子学生部長、女子学生部長が元気に出席してくれている。 未来はすべて、君たちのものだ。本当にありがとう!(大拍手) インド独立の父マハトマ・ガンジーは言った。 「学生たちが社会変革のバロメーターであるが、バロメーターになるためには、学生たちが正しい態度を身につけなくてはならない」(N・ラダクリシュナン著・栗原淑江訳『ガンジー・キング・イケダ ── 非暴力と対話の系譜』第三文明社) その通りである。 また、マハトマはこのようにも ── 。 「学生たちをたくましく、そして志操堅固に育てるためなら、わたしはどのような努力も惜しみません」(ハリーバーウ・ウパッデャイ著・池田運訳『バープー物語』講談社出版サービスセンター) 戦う青年の中心には、いつも学生がいた。学生こそ、時代の変革の先駆けである。 青年部、なかんずく学生部を、一段と伸ばすことが、「未来の勝利」の源泉となる。 新しい人材を見つけることは、希望の光を放つ「新しい星」を見つけることである。 戸田先生は厳しく言われた。 「こういう悪辣な時代に、広宣流布をやろうとするんだから、容易なことではない。我々の宗教革命は、よほどの信心と勇気と智慧がなければ、とうてい遂行できない大偉業なのだ」と。 ここに、知勇兼備の学生部の重大な使命がある。 青年を、学生を、すべて、力ある「最高の指導者」に育てたい。民衆のため、人々の幸福のため、無私の心で戦える本物のリーダーをつくりたい。今、私の心は、そのことで一杯である。 〈現在、世界各地の大学や学術機関で、名誉会長の思想と行動に関する研究が進んでいる。中国・北京大学の日本研究センターに「池田大作研究会」が設立されたのをはじめ、アルゼンチン、デンマーク、インド、台湾などに、「13」に及ぶ研究機関が生まれているのである。 世界の学生の間でも、”池田思想”への関心が高まっている。中国の新彊ウイグル自治区のイリ師範学院では、名誉会長の本を読んだ感動の声が、同学院のホームページに次のように寄せられていた。 「人生に悩む青年にとって、池田氏の本こそ最もふさわしい」「池田氏の本は、すべて、読者との『対話』に貫かれ、人生で大切なことは何かを私たちに、分かりやすく教えてくれる」「私は、池田氏の本が大好きだ」 「池田氏の本は苦難の中でこそ人格が磨かれると、私たちを励ましてくれる」「池田氏の本には、偉大な人格の力があり、大いなる思想があり、智慧に輝いている」〉 戸田先生は、私たち青年に強く呼びかけられた。 「青年よ、高く大いなる理想に生きよ! 炎となって進め!」と。 広宣流布ほどの偉大な理想はない。それに向かって、私たち青年は、「全員が戸田城聖である」との自覚で戦った。一人ひとりが広布の全責任を担って行動した。 だから、勝った。何をやっても、成功したのである。 「だれかがやるだろう」という無責任な姿勢からは、何も生まれない。「自分が広宣流布をするのだ」という強い一念を持つことだ。役職とか立場ではない。「心こそ大切」(御書1192ページ)である。 広宣流布に向かう「信心」の強い人こそ、生命の「最高の位」を持った人なのである。 戸田先生は、師匠の牧口先生に、まっすぐに仕えていかれた。牧口先生に命を捧げ、牢獄にまでお供された。 牧口先生と戸田先生の心は一体であった。そこに本当の師弟不二があった。 師匠を大事にした人は、永遠に栄える。 反対に、大恩ある師匠を裏切り、苦しめるような忘恩の輩は、必ず破滅していく。それが仏法の厳しき法則である。 青年部の皆さんは、全員が、今いる場所で、“いてもらわなくては困る人”になっていただきたい。 日々発心、日々挑戦である。”きょう一日、何をなすべきか”を明確にし、心に張り合いを持ちながら、献身的に動き、自分らしく輝いてもらいたいのである。 終戦後、私は、夜学に通いながら、昼間、西新橋の昭文堂という小さな印刷会社で働いた。 職場の雰囲気はとても家族的で、工場の引っ越しのときも、皆で協力してやった。かなづちや釘をもって、新しい工場づくりを手伝ったことも懐かしい。 その会社の主人は、私の仕事を全面的に信頼してくださった。 できるだけ長く自分の会社で仕事をしてもらいたいと期待してくださっていたようだが、病弱だった私は、そこを退社せざるをえなくなり、自宅に近い蒲田工業会の事務員書記として働くようになった。 ここでも良い先輩や仲間に恵まれた。 そして1年3カ月後、戸田先生の会社にお世話になることが決まり、蒲田工業会を退職した。 上司や同僚が「どうしても辞めなければいけないのか」と別れを惜しんで、心のこもった送別会を開いてくれたことが忘れられない。 “いなくてはならない人”“どうしても、いてほしい人”になることだ。これが牧口先生の教えであった。青年部の諸君は、たとえ目立たなくとも、信頼厚き人生を歩んでもらいたい。 今、この会場(広宣会館)に飾られている「道」の写真は、1991年6月27日、イギリスのウィンザー城を訪れた際に、私が撮影したものである。 ウィンザー城は、エリザベス女王が週末などに滞在する居城としても有名であった。 私はこれまで、イギリスのアン王女やチャールズ皇太子と会見した。忘れ得ぬ思い出である。 15年前の91年(平成3年)といえば、宗門が非道な学会攻撃を仕掛けてきた翌年である。私は、嫉妬に狂った邪宗門の謀略を打ち破り、新たな世界広布の道を開こうと立ち上がった。 日本は狭い。醜い妬みやデマばかりが横行している。そんなものは悠然と見おろして、世界を舞台に戦おう! ── これが私の決意であった。 卑劣にも学会を裏切り、広宣流布を阻もうとする輩もいた。そうした人間たちが、今、後悔に暮れ、哀れな末路をたどっていることは、皆さんがご存じの通りだ。 私は戸田先生の弟子として、ただ一人、先生の全指導をわが身に刻んできた。 先生は私に言われた。 「一生涯、お前が第3代会長だ。私の精神を受け継いだ、ただ一人の私の弟子だ」 師弟不二なれば、恐れるものなどは何もない。私は一人、超然として戦った。戦い抜いてきた。 そして私は勝ったのである。(大拍手)。 今、私はさらに先の先のことを考え、後に続く若き皆さんのために道を開いている。手を打っている。 青年のために ── これが本物の指導者である。こうした三代の指導者がいたからこそ、学会は世界的に発展したのである(大拍手)。 この「道」の写真については、ノーベル平和賞を受賞したアフリカの”環境の母”マータイ博士も賞讃してくださっていた。 〈博士は昨年2月に名誉会長と会見した際、名誉会長撮影の写真集を見ながら、「私が一番好きなのは、このウィンザー城の道の写真です。“至上の幸福”へと続く道です」と語っていた〉 私はマータイ博士をはじめ、これまで世界中の平和の指導者とお会いしてきた。 皆、SGIの活動に深い共感と賞讃を寄せてくださっている。 私が世界の諸大学など学術機関から贈られた「名誉博士」「名誉教授」等は現在、197。 すべて皆さまを代表しての栄誉であり、SGIが進める平和・文化・教育運動への賞讃の証なのである(大拍手)。 それは、戦時下の昭和18年(1943年)6月27日 ── 63年前のきょうのことであった。 当時、軍部政府は国家神道を中心とした思想統制を強めていた。そうしたなかで、牧口先生は政府の政策を批判し、活発な折伏・弘教を展開しておられた。 軍部権力の弾圧を恐れた宗門は、この日、戸田先生、牧口先生を本山に呼びつけた。そして、法主・日恭の立ち会いのもと、学会として「神札」を受けるように迫ったのである。 牧口先生は、言下に拒否された。 「承服いたしかねます。神札は絶対に受けません」 戸田先生は、のちに私にこう語っておられた。 ── この牧口先生の勇気ある一言が、学会の命運を分け、殉難の道へ、死身弘法の大聖人門下の誉れある正道へと、学会を導いたのだ。学会なくば、大聖人の御精神は途絶えていた、と。 牧口先生は、本当に偉大な方であった。 牧口先生、そして戸田先生の命を賭しての闘争があったからこそ、今日の学会の発展がある。 アジアをはじめ、世界の人々が、学会を深く信頼してくださっているのである。 御聖訓には、「師はまた、邪道を閉じて正道に赴かせる等の恩が深い」(御書435ページ、通解)と仰せである。 偉大な師匠があればこそ、弟子は正義と幸福の正しき道を歩むことができる。 ゆえに「師弟の道」こそ、人間として最も正しい道である。また「師匠への報恩の道」こそ、人間として最も深き道なのである。 タイの古都チェンマイにある名門・国立メージョー大学が、私への名誉学位の授与を決定してくださっている。 このメージョー大学はラジオ局を運営しており、2年ほど前から、私の著作や思想を紹介する番組を毎週、放送している。 番組のタイトルは「人生に価値創造」。1時間の番組で、「森ケ崎海岸」の歌のメロディーで始まる。 企画や進行は、タイ創価学会の青年部が担当しており、これまで『青春対話』の内容などを、朗読や対話の形で紹介してくださった。番組の回数も、すでに100回に及ぼうとしているとうかがった。 反響は大きく、メージョー大学のテープ・ポンパーニット学長も、「こんなに素晴らしい番組になるとは思わなかった。私も毎回、聞いています」と述べておられたという。 本当にすごいことである。番組の制作に尽力してくださっている皆さまに、心から感謝申し上げたい(大拍手)。 タイといえば、プーミポン国王が今年、在位60周年を迎えられた。私も3度、国王とお会いしたことが忘れられない。 光栄にも、一民間人である私のために長い時間をさいてくださり、タイと日本の文化交流などについて語り合った。 これからも、文化・教育交流などを通じて、日タイの友好の発展に貢献していきたい ── 私は、そう決意している。 広宣流布の本陣を護るリーダーの皆さまは、常に清々しい言動で、同志に喜びと確信を贈る存在であっていただきたい。 例えば座談会などの会合に出席した場合には、皆が決意に燃えて前進できるような、希望あふれる話をしてほしい。 ムスッとして、偉そうにしている。話もつまらない。それではリーダーとして失格である。 また、会合が終わった後には、皆さんを笑顔で見送って差し上げるなど、どこまでも一人ひとりを大切にする指導者であってもらいたい。 〈席上、以前、関西の会員から届けられた手紙の内容が紹介された。 昭和31年(1956年)、若き池田名誉会長が座談会に出席した時の思い出を綴ったものである。 「あの『大阪の戦い』の時でした。池田先生に来ていただいた座談会が、今でも忘れられません。(先生は)一人、若武者のごとく会場に来られました。一冊の御書を手にされていました」 「(池田先生は)体験談を聞けば、立ち上がらんばかりに、全身で讃える。 質問があれば、御書をひもときながら、一つ一つ丁寧に、明確に答えてくださる。 時にはジョークで皆を笑わせてくださる。楽しくて、嬉しくて、私たちは涙をぬぐいながら、笑っていました。 十人以上の新来の友も、座談会が終わる頃には、全員が入会を決意しました。 このにぎやかで、朗らかな座談会が、私の人生の原点です」〉 またリーダーは、いつも生き生きと輝く存在であってほしい。 リーダーが暗い顔をしていたら、皆まで元気がなくなってしまう。 例えば、道などで会員の皆さんに会ったら、さわやかに声をかけていくことだ。 「いつも、ご苦労さまです」とお辞儀をして、感謝の気持ちを伝えていくことだ。 御書には「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174ページ)と仰せである。 「あの人は立派だな」「親切だな」「素晴らしいな」そう皆から尊敬されるリーダーであっていただきたい。 戸田先生は、こうした「振る舞い」が大事なのだと、いつも厳しく言われていた。 リーダーが真剣で、賢明で、智慧があり、厚く信頼される存在であれば、同志は皆、勇気百倍である。 どうか、かつてない勝利へ向かって、全国・全世界の同志のために、わが責任を誇り高く果たしていっていただきたい。 よろしく頼みます!(大拍手) 先日、創価大学法科大学院のヘンリー幸田教授から、天才エジソンが発明・製作した蓄音機(1913年、エジソン社製)をお贈りいただいた。 幸田教授は日米知的財産権問題の権威で、アメリカで弁護士として活躍してこられた。エジソンの発明品の収集家としても知られる。現在、蓄音機は、民音音楽博物館(東京・信濃町)で、大切に展示されている。 教授からは蓄音機とあわせて、自著『天才エジソンの秘密 ── 母が教えた7つのルール』(講談社エディトリアル)を頂戴した。 その中から、いくつかエジソンの格言を紹介させていただきたい。 「私にとって仕事は楽しみだ。義務と思ったことは一度もない」 その通りだ。人間、こういう気概があってこそ、偉大な仕事ができる。 「人間の最大の欠陥はすぐにあきらめることにある。成功するための最善の方法は、もう一度やってみることだ」 大事なのは、忍耐である。決してあきらめない執念である。その人に最後の勝利は輝く。 さらに、エジソンは言った。 「頭は筋肉と同様、鍛えるほど強化される」 確かに、学ぶことに限界はない。 愚かでは広宣流布の指揮はとれない。リーダーは、常に学ぶことを怠ってはならない。 『三国志』の英雄・諸葛孔明も、指導者にあってはならない「八悪」の一つとして、「智慧に欠ける。したがって未知の事態に備えることができない」点を挙げたと伝えられる。〈守屋洋編訳『諸葛孔明の兵法』徳間書店から〉 今年もまた、師弟の魂を刻む7月が巡り来る。「創価の師弟」の殉難の歴史は、永遠に輝きわたる。 ご存じの通り、正法正義を掲げ、国家悪と戦い抜いた牧口先生、戸田先生は、昭和18年(1943年)7月6日に逮捕。 牧口先生は昭和19年11月18日に獄死され、戸田先生は昭和20年7月3日に出獄された。 法華経を持ち行ずる人は、必ず迫害される。 「悪口罵詈」され、「猶多怨嫉」の難を受ける。 これが法華経に説かれた方程式であり、広宣流布を成し遂げんとする人にとっての、いわば“宿命”である。 この経文の通りに、牧口先生も戸田先生も、弾圧され、投獄された。 第3代の私も、さんざんに嫉妬された。追い落とすために、どれほど、ありもしない作り話を書かれ、迫害を受けてきたことか。 広宣流布を前進させたがゆえに、私も両先生と同じく、権力の迫害を受け、牢に入った。「大阪事件」である。 しかし、法華経の眼から見れば、それらは、むしろ名誉なことだ。最も正しく、広宣流布を成し遂げている証拠だからである(大拍手)。 〈「大阪事件」は、1957年(昭和32年)の参院選大阪地方区補欠選挙で、一部の会員に公職選挙法の違反者が出たのに伴い、同年7月3日、支援責任者だった名誉会長が不当逮捕された事件。 事件の背景には、急速に発展する学会への、当局の警戒感があったと考えられる。 大阪地裁での裁判で検察側は、一連の違反のうち戸別訪問が池田名誉会長の指示によるものとの主張を展開。しかし公判を通じて、検察側の言い分は崩された。「禁固10カ月」が求刑されたものの、昭和37年1月25日、田中勇雄裁判長から、名誉会長の「無罪」の判決が下された。 もとより無実の罪であり、当然の公正な判決であるが、月刊誌「潮」で連載中の「平和と文化の大城池田大作の軌跡」によれば、田中裁判長はのちに、「池田会長は他の人と違う。輝いている。この人は将来、ものすごく偉くなる人」と周囲に印象を語っていた。 また、公判担当の検察官も、判決の直後に、池田名誉会長に「このような結果になるのではないかと思っていた」と語りかけたという〉 きょうは、牧口先生、戸田先生の遺徳を偲びつつ、両先生が逮捕された経緯がどのようなものであったのか、あらためて確認しておきたい。 牧口先生は昭和18年7月2日、二人の会員を伴い、伊豆の下田へ折伏に行かれた。2日、3日、4日と連日、折伏のための座談会に出席。5日も現・下田市須崎へ赴かれている。同行した友の父親を折伏するためであった。 そして6日の朝、須崎で特高刑事二人に同行を求められる。下田署まで4・7キロの道のりを歩かれ、逮捕された。 暑い季節。しかも老齢の先生である。どれほど、お疲れであったろうか。 この先生が連行された道沿いには、先生の殉教から60年となる2004年1月に「下田牧口記念会館」が開館し、敷地内には「牧口常三郎先生法難頒徳之碑」が立っている。 先生の逮捕の容疑は「治安維持法違反」ならびに「不敬罪」であった。 すでに逮捕の数年前から、弾圧の手は伸びていた。 昭和17年5月には、機関紙「価値創造」が廃刊に追い込まれる。座談会等も昭和16年ころから特高刑事に監視されるようになっていた。 昭和18年5月には、牧口先生が約1週間、東京・中野署に留置され、神札問題について取り調べを受けている。 そういう状況にあってなお、牧口先生は、遠路、折伏に赴かれ、座談会に出席された。 逮捕のその時まで、広宣流布に一身を捧げておられたのである。 戸田先生も同じ7月6日朝、同じ二つの罪状で、東京・白金台の自宅で逮捕され、高輪署に留置された。 一方、牧口先生は翌7日、下田署から警視庁に移される。 逮捕の際には、牧口先生の目白の自宅をはじめ、創価教育学会本部、時習学館も家宅捜索され、御書や牧口先生の著作などが押収された。 結局、翌年までに、逮捕者は21人に上った。 その中で、ただお一人、戸田先生が、牧口先生とともに法難を忍び、獄死した師匠の遺志を継ぎ、師匠の仇を討つために立ち上がったのである。 「師弟」「師弟」と口で言うのは簡単である。 しかし戸田先生の牧口先生に対する思いがどれほどのものであったか。 私はそれを、だれよりも知っている。そして、戸田先生が牧口先生にお仕えしたのと寸分違わぬ決意で、私は、戸田先生にお仕えしてきた。 お二人の大闘争を偲び、世界に宣揚してきた。ご遺族も、誠心誠意、お守りしてきた。 創価の3代にこそ、仏法の精神が脈動している。「師弟不二」がある。これ以上に尊い人間の関係はないと、私は信じている。 逮捕から2カ月後の9月、警視庁特高課の取調室で、牧口先生と戸田先生は一緒になられた。 牧口先生の7回忌の法要で、戸田先生は、牧口先生が特高刑事に怒鳴られた時の悔しさを述懐されている。 〈家族からの差し入れの中にカミソリがあり、牧口初代会長がそれを懐かしそうに手に取ると、特高刑事が大声で「牧口、おまえは何をもっているのか。ここをどこと思う。刃物をいじるとはなにごとだ」と怒鳴った。 戸田第2代会長は法要で、「先生は無念そうに、その刃物をおかれました。身は国法に従えども、心は国法に従わず。先生は創価学会の会長である。そのときの、わたくしのくやしさ」と心情を述べている〉 そして同じ9月、牧口先生は、警視庁から巣鴨の東京拘置所に移送された。 そこは3畳間の独房であった。 移送の途中、警視庁内で、戸田先生は牧口先生と出会われた。 「先生、お丈夫で」 戸田先生が声をかけられると、牧口先生は無言でうなずかれた。これがお二人の最後の別れとなった。 以後、東京拘置所において、思想検事による、牧口先生への本格的な取り調べが始まった。 「特高月報」(昭和18年7月分)は、逮捕理由になった牧口先生の言動について、こう記している。 「会長牧口を中心とする関係者等の思想信仰には幾多不逞不穏のものあり」 「『法華経、日蓮を誹謗すれば必ず罰が当る』『伊勢神宮など拝む要はない』等不逞説法を流布せる」 国家神道を全国民に強要した戦時下にあって、それが、どれほど勇気ある発言であったか。 牧口先生は、過酷な尋問に対しても、主張を曲げなかった。看守を折伏され、絶えず御書を拝しておられた。 あまりにも偉大な「創価の父」であられた。 「特高月報」(昭和18年12月分)には、牧口先生の起訴状が掲載されている。 主な起訴理由として、逮捕までの約2年間に、「毎月約1回、幹部会を開催」「4回にわたり総会を開催」「約240余回の座談会を開催」「10回の地方指導」などを行ったことが列挙されている。 「特高月報」が、厳然と、先師の偉大さを証明しているのである。 それでは、両先生が広宣流布のため、命をかけて国家権力と戦っている間、宗門はどういう行動をとったのか。 あろうことか宗門は、牧口・戸田先生が逮捕された7月、両先生らを「登山止め」「末寺参詣禁止」処分。さらに、牧口先生を「信徒除名」にした。 同月、牧口先生の留守宅に宗門の坊主が訪れ、ご家族に、牧口先生に退転を勧めるよう要請し、断られている。 すべて、宗門に累が及ぶのを恐れての、卑劣な行動であった。 宗門は戦時中、神札容認など、さんざんに謗法をくり返したあげく、昭和20年6月17日に、大石寺で火災を起こした。神札が祭られていた書院をはじめ主要な建物を焼失し、時の法主・日恭は、逃げ遅れて焼死している。 この時、宗門には、広宣流布の「信心の血脈」は途絶えていた。 ただ創価学会にのみ、厳然と流れていたのである。 ここで再び、戸田先生のご指導を紹介したい。 「“私はつまらない人間ですが、広宣流布にお使いください” ── と、そういう人間になれ」 よく先生が、青年に言われた言葉である。 後継の青年たちが、一生涯、謙虚な気持ちを忘れないよう教えてくださった。「弟子の生き方」を示してくださった。 求道の心を失い、慢心に陥れば、ただちに人間としての堕落が始まる。それを教えてくださる師匠の存在は、本当にありがたいものである。 「悔いのない戦いとは、事前の作戦にかかっている。これから将来にわたっての広宣流布の法戦も、この原理を忘れてはならない」 このように、先生は「作戦」の大切さを力説してやまなかった。 よく考えよ、頭を使え、周到に準備せよ、と。勝負の大部分は、作戦の段階で決まってしまうからだ。 面倒くさがって準備をおろそかにしたり、作戦を軽視することは、敗北の「因」をつくっていることになる。すべてリーダーの責任である。 また戸田先生は、外交のできない人間は深く信頼できないと言われていた。とくに青年に対して、外部とのしのぎを削る打ち合いの中でこそ、人間の地金が磨かれることを教えられた。 ゆえに私は、先生の教えのままに、先生のもとで、あらゆる外交戦の矢面に立って戦った。 続いて、女性に対する戸田先生のご指導である。 「女性は、常に勇敢に働ききっていく生命力を持ちなさい」 「若さとは、生命力から湧くものだ」 年は若くても、老いた感じを受ける人がいる。何歳になっても、若々しく輝いている人がいる。 その差は、「生命力」にある。 とくに女子部の皆さんに、次の先生の言葉を贈りたい。 「女性の幸福は青春時代では決まらない。青春時代は一生の幸福の土台を築く鍛錬の時代だ」 先生は、女子部が一人残らず、幸福になることを願われていた。 どれほど外面を飾っても、真実の幸福はつかめない。妙法によってこそ、崩れざる絶対的幸福の基盤を築くことができる。そのための信行学の実践である。 「信行学に励んで、自分の生命に、盤石の福運をつけることです」と、厳しくも温かく、先生は女子部を激励なされた。 「だれでも苦労すると人間が卑屈になるが、それではいけない。どんなに苦労をしても、いつまでも伸び伸びとしていなければね」 ── これも女子部に対するご指導であった。 人生に悩みはつきものである。悩みのない人生などありえない。 ましてや、深き使命に生きる皆さまは、さまざまな壁にぶつかることがあるだろう。しかし、決して負けてはいけない。 苦労が自分を磨き、鍛えてくれる。妙法を持った女性が幸福になりゆくことは、絶対に間違いない。 最も苦しんだ人が、最も幸福になる。それが妙法である。 鍛えなくして、強い人間にはなれない。 「厳しく言われ、また厳しく言われながら、時が経てば、どんな人でもよくなるのだ」と、先生は言っておられた。 戸田先生は、青年が社会で生きる姿勢について、「その職場、職場で喜んで生きていくことだ。青年は、自分の使命に生きることが大切である」と訴えていた。 そして、「人生は地道に生きよ! 虚栄のために生きるな。真実に生きよ!忍耐強く生きよ! 」と励ましてくださったのである。 また、「捨て身でない狭い根性は人に好かれない」とのお言葉も忘れられない。 自分のことばかり考えている、ずるい人間、利己主義の人間は嫌われる。リーダーが、人から好かれなくなったら終わりである。 広布のリーダーは、公平でなければならない。 自分自身の利害が、いつも念頭にあるような人間は、公平に人を見ることができない。そうならないためには、深き信心に徹するしかない。 「『組織の目』だけではなく、つねに『信心の目』で人を見なければならない。とくに、役職は高くなくても、本当にまじめな信心の方がおられる。その方々を尊び、心から讃え、励まし、守っていく心が、自分自身の信心の証であることを忘れてはならない」 幹部の皆さんは、この戸田先生のご指導を肝に銘じていただきたい。 最後に、御聖訓を拝したい。 「外道や悪人は、如来の正法を破ることはできない。必ず、仏弟子らが仏法を破るのである。師子身中の虫が師子を内から食うとはこのことである」(御書957ページ、通解) 外の敵ではない。内部から仏法は破壊されるとの御金言である。 仲間うちから、反逆の輩が現れる。これが方程式である。 同志を裏切る卑劣な行いは、永久に許してはならない。 仏法が、どれほど「恩」を重視しているか。 御書には、「二乗は父母・師匠・国主・主君・一切衆生・仏などへの報恩が皆欠けている。ゆえに一念も二乗の心を起こすことは、十悪や五逆罪を犯すよりも過ぎたことである」(同435ページ、通解)と仰せである。 二乗の心とは、利他を忘れて、自らの利に執着する心である。それでは恩に報いることができない。ゆえに、十悪や五逆罪を犯すよりも、成仏の道を閉ざすことになるのである。 名声、学歴、権力、地位を持った人間は、忘恩の心に陥りやすい。 忘恩の人間は、例外なく苦悩の底に沈んでいく。その末路は悲惨である。私はこれまで、大勢の人間を見てきたが、まさしく大聖人の御言葉の通りであった。 だからこそ仏法では、不知恩、忘恩を厳しく戒めるのである。 日蓮大聖人は、いかなる困難をもかえりみず、ひとえに国を思い、民の幸福を思い、正しき道を為政者に指し示した。 ところが当時の権力者は、その正義の声に耳を傾けるどころか、大悪人と結託し、命にも及ぶ迫害で報いた。 これについて大聖人は、「『大悪人を用いる大罪』と『正法の大善人を辱める大罪』という二つの悪が、鼻を並べて、この国に出現したのである」(同357ページ、通解)と仰せになり、だから「前代未聞の大事」(同ページ)がこの国に起きたのであると述べられている。 「正法の大善人」をいかに遇するか。それによって、その社会の未来は決まる。 大聖人は「人に食を施す」功徳について、「力を授けることで、人間界、天上界に生まれて威徳を備えた人となって、多くの人々がその周りに集まる」(同1237ページ、通解)等と言われている。 日夜、勇気と希望の励ましに奔走し、人々に「生きる力」を送っておられる皆さまの功徳も、きわめて大きい。 生々世々、各界のリーダーとなり、多くの人が周囲に集まってくる立場となっていくことは間違いない。 結びに、フランスの文豪ロマン・ロランの名作の一節に、我らの決意を託したい。 「予はただ勝利によって己が道を開いているのだ」(豊島与志雄訳『ジャン・クリストフ』岩波文庫) 私どもも、これで行こう! 勝利によって「道」を開こう! どこまでも、学会のために、勝っていこう!(大拍手) 私は、後に続く皆さんのために、盤石なる広布の基盤を整えておく。 それは、私の、後輩に対する贈り物である。そのために今、着々と手を打っているとお伝えし、私のスピーチを終わります。 きょうは、長時間、本当にありがとう! (大拍手) Tweet