2014年12月26日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月26日(金)10時43分34秒 先程、この開目抄は三つの論点で展開され、 「法華経に説かれる諸難について、経文と大聖人の行動とが符合(身読)している事実を説明し、 日蓮こそが末法の法華経の行者であると論証して」いくと述べました。 そもそも大聖人以前の「法華経の持経者(信者)」たちの実践法は、 法華経『法師品』の「妙法蓮華経の乃至一偈を受持・読誦・解説・書写し、 此の経巻に於いて敬い視ること仏の如く」(妙法蓮華経三五五頁)を実践することでした。 しかし、大聖人はまったく別の方法でその命題を解きます。 それは「法華経身読(身で読む)」という実践法です。 そして、法華経の「不軽品」と「勧持品」を実践の要に置きました。 その中に「折伏弘教・三類の強敵」が書かれているのです。 大聖人がこの立場に立つ以上、大難は避けられず、 三類の強敵との闘争は、むしろ当然だったのです。 わが身に競い起こる難が、経文のどれに当たるかを分析し、 受難の中で弟子たちを育成していきました。 そして、いくつもの難を乗り越える実践の中で、 南無妙法蓮華経の偉大な力用を証明し、受難を通して 「法華経の持経者(信者)」から「法華経の行者」へと、自らを位置づけていきました。 開目抄に 「已上、五箇の鳳詔(ほうしょう)にをどろきて勧持品の弘経あり、明鏡の経文を出して」(二二三頁) ――以上、五つの仏勅によって目覚めた菩薩たちは、 勧持品において法華経を弘めることを誓ったのである。 明鏡である勧持品の経文を出して――とあります。 これは、大聖人が末法の法華経の行者であるということを論証するために、 経文を明鏡として展開しているところです。 『五箇の鳳詔』とは、 見宝塔品の「三箇の勅宣」と、提婆達多品の「二箇の諌暁」のことで合わせて「五箇」とします。 「鳳詔」とは、天皇の言・仏の金言という意味です。 Tweet