2014年12月26日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月26日(金)10時42分19秒 如説修行抄には 「真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり」(五〇一頁) ――真正の法華経の行者の弟子には、必ず三類の強敵の迫害が競い起こる――と述べられています。 大聖人ご在世の時代、「我が弟子等の中にも、兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き、肝をけして信心を破りぬ」(同頁) ――わが弟子の中にも、 常日頃から「必ず難がある」と言っているにもかかわらず、 いざ大小の難が来た時は、臆病になり、恐怖に震えて、 師匠の言うことを信じないで、信心を止めてしまう――とあります。 事実、大聖人も「御勘気(佐渡流罪)の時、千が九百九十九人は堕ちて候」(九〇七頁)と表現したように、師匠が三類の強敵と戦っているときに、退転していく弟子門下が続出しました。 その人の信心の本質や、師匠に対する姿勢というものは、平常の時はわかりにくいものです。 しかし、ひとたび三類の強敵が姿を現し、仏敵との闘争が開始された時に 「本物か偽物か」が峻厳に分かれていきます。 にせ者の心根にあるものは「仏法と世法」との判断基準を、 どちらに置いて生きているか、という人生観の違いです。 佐渡流罪期、弟子門下が退転に向かっていったのは、 世間的幸福を失ってまで、大聖人の説く仏法を実践するつもりも、 師匠と共に運命を共にするという覚悟もなかったからにすぎません。 これは、釈尊の時代も、大聖人の時代も、現代も、永遠に変わらぬ方程式であり原理です。 いったいこの開目抄には、何が説かれているのでしょうか。 仏弟子を退転に向かわす「三類の強敵」の正体とはどういうものなのでしょうか。 開目抄には、その三類の強敵について詳細に描かれています。 それらも含めて開目抄を皆さんと共に見ていきたいと思います。 Tweet