投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月26日(金)10時41分32秒  

開目抄では「法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし。
三類はすでにあり、法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし」(二三〇頁)

――真実の法華経の行者は、必ず三類の強敵に迫害されると経文に説かれている。
日蓮はその経文通り、すでに三類の強敵に迫害され勝ち抜いた。
真実の法華経の行者は誰なのだ。その人を師匠としていけ !――と弟子に叫ばれました。

三類の強敵と戦い抜く法華経の行者こそが、
悪世末法の人々を救済する「真正の師」であるとの結論です。
障魔と戦える人のみが「末法の師」なのです。

さらに「日蓮は日本国の諸人にしうし父母(主師親)なり」(二三七頁)

――日蓮は日本(世界)の人々にとっては、
主師親の三徳を体現した根源の師匠なのだ――と結論します。

つまり、大聖人は伊豆流罪から佐渡流罪という
権力者の弾圧がもっとも激しい佐渡期において、
ついに法華経身読を通して「主師親の三徳」を体現したという自覚に立ったのです。
これが日蓮大聖人の発迹顕本です。

大聖人は、相次ぐ大難に耐えながら、
仏界の生命を凡夫のわが身に開き、顕されていきました。

そして、自らの生き方や実践を手本として全民衆に提示し、
万人に弘めゆく方途を確立されたのです。
これが「法体の広宣流布」の成就です。

民衆に仏の境涯を得させようとの一念は、大聖人の大慈悲の現れです。
この大慈悲こそ、私たちが大聖人を「末法の御本仏」と仰ぐゆえんです。

そしてまた、この大聖人の発迹顕本や大慈悲に目を開き、
大聖人を手本として、開目抄を身読したのが創価三代の大師匠なのです。