2014年12月26日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月26日(金)10時40分42秒 牧口先生は、単に仏法思想の偉大さに胸をゆすぶられたのではなく、 それを自らの行動で実証し、民衆の幸福と社会の繁栄を実現しようとした 日蓮大聖人の行き方に、七百年の時を越えてダイレクトに牧口先生の心に共鳴したのだと思います。 その日蓮大聖人の仏法思想に「目を開け」と教え呼びかけているのが 「教の重」と言われる「開目抄」です。 この開目抄で、大聖人が一番訴えたかったことは 「此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし」(九一九頁) ――この開目抄の心は、日蓮の主張を聞くか聞かないかで、 日本(世界)の繁栄か、滅亡かが決まってしまう――ということでした。 開目抄の論理構成は、「テーマ」「解釈」「結論」の三つの論点で展開されていきます。 開目抄全体に貫かれている最大のテーマは 「一切衆生の尊敬すべき者三あり。所謂、主師親これなり」(一八六頁)です。 まず大聖人は、外典(儒教道教)と仏典(一切の仏教)からそれらを考察され、 法華経に説かれる諸難について、経文と大聖人の行動とが符合(身読)している事実を説明し、 日蓮こそが末法の法華経の行者であると論証していきました。 ちなみに、伊豆流罪期に著した「教機時国抄」には、 法華経の行者の定義が述べられています。 それは「三類の敵人を顕さずんば法華経の行者に非ず。之を顕すは法華経の行者なり」(四四二頁) ――三類の敵人を顕しそれと戦った者が、真実の法華経の行者なのだ――というものです。 Tweet