投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月31日(金)20時01分26秒     通報
■ 女性の連帯が「文明の質」を変える

名誉会長: いわゆる「男性的なるもの」にもプラス面とマイナス面がある。たとえば、「力」を自在に行使して何かを建設する面があるとしたら、それは場合によっては、権力欲となり、横暴さや破壊となって表れるかもしれない。まさに「悪人」です。提婆達多です。
一方、「女性的なるもの」に、多くのものを「包みこむ」特質があるとしたら、それは場合によっては、貪欲に「のみこむ」悪となって表れるかもしれない。

遠藤: 鬼子母神は、その典型ですね。

名誉会長: それらのプラス面を最大に輝かせるのが、提婆と竜女の成仏であり、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の実証と言えるでしょう。
さらに、女性だから女性の苦しみがわかり、女性を救っていける。女性として苦しんだ分だけ、人を幸福にできる力となる。それが妙法の力です。また、それが竜女成仏です。畜身で女性で年少で —- 一番、低く見られていた竜女が一番早く「即身成仏」した。そこに意味がある。ともあれ、しいたげられた差別社会のなかで、竜女成仏は万感の思いをこめた「人権宣言」だったと言えるでしょう
フランス革命の人権宣言(1789年)は有名ですが、そこでいう「人」とは「男性」だけであった。それを批判して「女性および女性市民の権利宣言」(1791年)を発表した女性がいた。彼女、オランプ・ドゥ・グージュは、しかし“反革命”の罪状でギロチンにかけれてしまった。その他、女性の人権を獲得するために、無数の犠牲が払われてきました。
その尊き歴史をムダにしないためにも、法華経に基づく「女性の人権宣言」は、一人一人がだれよりも幸福になることが根本です。一人の犠牲もなく、一人一人竜女のごとく、生死海の大海のなかで「苦の衆生」を救いながら、自他ともに絶対の幸福境涯の航海をしていくのです。
女性は幸福になってもらいたい。ならねばならない。それが法華経の心です。そして竜女とは、「竜」は父の竜王、「女」は娘で、「親子一体の成仏」を表す。自分の成仏で、親をも救っていける。
さらに、竜女が成仏して活躍する国土が「無垢世界」と説かれるように、一人の女性の成仏は周囲の一切を浄らかな美しき世界に一変させてしまう。さらに、自らの尊貴さに目覚めた女性の連帯は、文明の質をも変えていくでしょう。学会の婦人部・女子部の皆さまは、その先覚者であり中核です。これ以上に尊い存在はない。かけがえのない方々です。世界も注目しています。
たとえばタゴール(インドの詩聖)が、現代文明を男性優位の「力の文明」とし、女性の力で、慈愛に基づく「魂の文明」を育ててほしいと念願したのは有名です。

斉藤: たしかに自然破壊にせよ、生命を機械視する科学にせよ、男性的な「支配する知」が根底にあると論じられています。

名誉会長: その意味で、提婆品は、文明の在り方をも転換させゆく大きな示唆を秘めているのではないだろうか。
端的に言えば、「物質文明」から「生命の文明」への転換です。「支配と服従]の社会から、「調和と慈悲」の社会への転換です。その転換のひとつのカギは、竜女をたたえた文殊菩薩の言葉にあると思う。
「衆生を慈念すること、猶、赤子の如し」(法華経 p430)。生きとし生けるものを我が子のように慈愛で包んでいくというのです。その境涯を女性も男性も、人類全体が目指していく。そこに竜女成仏の文明論的意味があるのではないだろうか。
§勧持品§
■ 「弟子が師子吼」「弟子が三類の強敵と戦う」

名誉会長: 私が追求しているのは「本物の人間」です。「本物の人生」です。
ミケランジェロの晩年の作品に「最後の審判」という大壁画がある(縦14.5メートル、横13メートル)。「ミケランジェロ展」では、その部分を模写した版画も展示されていた。
(同展は、東京富士美術館とイタリアのカーサ・ブオナローティ(ミケランジェロの家)の協力により、1996年4月から9月にかけて東京と京都で開催された)
その絵図のなかに、ミケランジェロ自身もいる。その描き方が、すごい。“ぬけがら”です。皮一枚の姿で、無残に垂れ下がっている。「生皮をはがされて殉教した」という聖者の“生皮”が、彼の自画像になっている。
なぜ自分だけ、そんなふうに描いたのか。さまざまな解釈ができるが、私はそれを見て、これこそ「本当に生ききった」人間だと思った。
他の人物たちの肉体は完璧に描いている。生けるがごとき、その姿は、皆、ミケランジェロ自身が“与えた”ものです。与えて、与えて、彼は自分をすべて与えきった。“ぬけがら”になるまで与えきって死んだ。
菩薩です。自分を与えるという不惜身命の魂魄を私は感じた。

遠藤: 実際のミケランジェロは「肉づきがよく」「頑丈で骨太の体格」であったと伝記にはあります。それが、ここでは皮だけになっている —- 。深い意味を感じます。

名誉会長: 人間そのものです。偉大な凡夫です。そこに偉さがある。
次元は違うが、仏法の究極も「偉大なる凡夫」として生ききることにある。自分の命を与えきって死んでいく。法のため、人のため、社会のために、尽くして尽くし抜いて、ボロボロになって死んでいく。それが菩薩であり、仏である。
「殉教」です。何ものも恐れず、正義を叫びきることです。人を救うために、命を使いきることです。この心なくして、「仏法」はない。この殉教の心を、法華経は「我身命を愛せず 但無上道を惜しむ」(法華経 p443)と説いている。
それが、今回学ぶ勧持品(第十三章)の魂なのです。学会精神も、ここにある。
この死身弘法の魂を忘れたら、本当の創価学会ではありません。

斉藤: 教学部も、その骨髄の精神を学びきってまいります。
これまで語っていたいただいた宝塔品(第十一章)で、釈尊は仏の滅後に法華経を説くことが、どんなに難しいかを示しました。心して弘経を決意せよと(三箇の勅宣)。
続く提婆品(第十二章)では、「悪人成仏」「女人成仏」という偉大な法華経の力を明しました(二箇の諫暁)。
それを受けて菩薩たちが、どんな迫害があろうと、法華経を説ききってまいりますと誓う。これが勧持品です。

須田: “弟子の誓い”の品であると言えます。

斉藤: その誓いのなかで、迫害の具体的な様相も示されていますね。

須田: 「三類の強敵」です。これまで、何度も学んできたところです。

名誉会長: なじみが深いだけに、大いに探究したいところです。勧持品は「三類の強敵」に焦点を当てて、論じていってはどうだろうか。