投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月31日(金)13時22分38秒     通報
■ 女性と男性 —- 対立から調和へ

名誉会長: 永遠の生命から見れば、男といい女といっても、ある人生では男性となり、ある時は女性と生まれ、固定的なものではありません。その意味でも、あらゆる人のなかに「男性的なるもの」と「女性的なるもの」が両方あると考えられます。

須田: 女性にも男性ホルモンがあり、男性にも女性ホルモンがあるようなものでしょうか。ちょっと次元が違うかもしれませんが(笑い)。

名誉会長: いや、わかりやすい誓えかもしれない(笑い)。ともあれ、一人の人間の中に「男性的なるもの」と「女性的なるもの」が調和していなければならない。それが人格の成熟であるし、自己実現でしょう。
つまり、男性も、いわゆる「男らしい」だけでは粗暴になってしまう。女性の考え方、感性を理解できるこまやかさ、優しさが必要でしょう。女性の場合も、いわゆる「女らしい」だけでは十分とは言えないでしょう。現代の文化では男性的な特質とされている冷静・沈着な思考力、判断力、展望力などを具えていかなければ、自分自身を大きく開花させたとは言えないのではないだろうか。それは男性の女性化でもなければ、女性の男性化でもない。女性の男性化ならば、それは「変成男子」になってしまう。
どんな社会においても、男性は男性らしさ、女性は女性らしさが、その社会なりに要求されます。その要求に適応すればするほど、それ以外の自分の特質が抑圧されてしまう面がある。それは、ある意味で、しかたのないことかもしれないが、だからこそ、男性は女性に学び、女性は男性に学んで、互いに自分の人格を大きく育てていくべきではないだろうか。
結婚の意義のひとつも、こういう自己完成にあると思う。もちろん、結婚しなければならないという意味ではありません。

遠藤: ある心理学者は、こう述べています。「男性にとっても女性にとっても、昼と夜、上と下、父権的意識と母権的意識といった対立要素が結合して、それぞれ独自の生産性を発揮し、たがいに補完し合い、実らせ合うようになってはじめて、全一性に到達することもできるのである」(E・ノイマン著『女性の深層』、松代洋一、鎌田輝男訳、紀伊國屋書店)。

■ 「女性的なるもの」を求めた詩人たち

名誉会長: なるほど。私は青春時代から、ダンテの『神曲』とゲーテの『ファウスト』に魅かれ続けてきた。何回か論じたこともあります。その両方とも、「女性的なるもの」への憧憬と賛嘆が綴られています。
『神曲』は言うまでもなく、ベアトリーチェ(ダンテの初恋の女性)を天上界への導きの星として記されたものですし、聖母マリアが大きな位置を占めています。聖母マリア信仰そのものが、キリスト教信徒からの「女性的なるもの」への要求に応えるものであるとも論じられています。

遠藤: キリスト教自体は、どちらかと言えば男性的な側面の強い宗教であり、その補完としてマリア信仰が高まったということが指摘されていますね。

名誉会長: ダンテは自分自身の人間としての完成のために、ペアトリーチェという理想化された「女性的なるもの」が必要だったとは言えないだろうか。また『ファウスト』の最後は、有名な次の言葉でしめくくられています。
「永遠の女性的なるものこそ われらを高みのかなたへひいていく」(『ゲーテ全集3』山下肇訳、潮出版社)
ゲーテもまた、「全体人間」たらんとする精神闘争のなかで、男性として「永遠の女性的なるもの」を求め続けたのではないだろうか。
この「全体人間」の究極が、一念三千を体得した仏となるのです。
その意味で、提婆品に、提婆達多の「悪人成仏」と竜女の「女人成仏」が両方そろって説かれていることには意味があると思う。
■ 「一個の人間」に提婆と竜女の両面が

斉藤: はい。この両方がなぜ、ここで説かれているのか、前半と後半で脈絡がないではないかといった指摘もなされています。しかし両方あって初めて、人間の全体像が押さえられると思います。男性と女性の両方ということもありますが、一個の人間における「提婆達多」の面と「竜女」の面が成仏するという意義があるのではないでしょうか。

名誉会長: そうだね。大聖人は、「提婆はこころの成仏をあらはし・竜女は身の成仏をあらはす」(御書 p1556)、「提婆は我等が煩悩即菩提を顕すなり、竜女は生死即涅槃を顕すなり」(御書p746)と論じておられる。
この両方があるからこそ、一個の人間における色心ともの成仏になるのです。

遠藤: 竜女の場合、畜生の身そのままで「即身成仏」したところに説法の力点があるわけですから、色心二法のうち「身の成仏」を象徴しているわけですね。また悪人成仏の場合、善悪は心の問題で、悪人と善人で身体が違うということはありません。そこで竜女に対比すれば「心の成仏」を象徴するということだと思います。

須田: 「心」の次元の成仏は、煩悩即菩提ですし、生死即涅槃は「身体」を含んだ生命全体の次元です。この両方があって色心不二の成仏となります。提婆品全体で、一個の人間の色心も、「男性的なるもの」も「女性的なるもの」も成仏することを表していると考えられます。

名誉会長: その通りだが、これは決して形式論ではない。自分自身という存在にどこまで深く肉薄するかという問題です。日蓮大聖人は佐渡流罪という生涯最大の難のなかで、一個の人間としての御自身を、ぎりぎりまで見つめられた。「佐渡御書」では、こう仰せです。
「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり(中略)心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず」(御書 p958)云々と。
流人の身です。権力者と対極にある。地位もない。財産もない。権力もない。満足な食糧も衣服も住居もない。あるのは生命のみ。まさに赤裸々な「人間」それ自身だけです。そういうなかで、ご自身の存在を“身は畜身なり”と言い切られた。
たしかに人間の身体は、つまるところ動物としての身体です。ですから、その意味でも、竜女の「畜身の成仏」は他人事ではないのです。女性だけのことでないのは言うまでもない。そして「心は梵天帝釈も恐れない」と。この「心」ひとつで、大聖人は強大な幕府権力と戦われたのです。
大聖人のご内省は、さらに続きますが、結論として、この裸一貫の心身を法華経に捧げきって、色心ともに仏になる、必ず自分は仏になるのだと高らかに宣言なされている。

斉藤: 「いかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき」(御書 p960) —- 不軽菩薩と同じ修行を行じる日蓮が、それを因として、どうして一人、仏にならないはずがあろうか —- と仰せです。

名誉会長: 大難を受け、大難と戦いきってこそ「即身成仏」はあることを教えてくださっているのです。提婆品も、この一点を忘れて読めば観念論になってしまう。