投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月31日(金)07時06分25秒     通報
■ 「人間として」輝いてこそ

遠藤: そうしますと、仏法上、男女の違いはどう見るのでしょうか。
男性も女性も一念三千の当体であるという平等面はよくわかるのですが、やはり、さまざまな違いが現実にはあると思うのですが。

須田: 一般によく言われるのは、男性の行動パターンが、どちらかといえば観念的・抽象的であるのに対し、女性の場合は直感的、現実的であると。偽者や嘘を、女性の鋭い直感で直ちに見抜くとか(笑い)。

遠藤: 何といっても女性には、子どもを出産できる性であるという根底的な特質があります。生命の誕生に直接関わっているという意味では、女性のほうが生命の基本的な次元により深く根差しているという意見もあります。

斉藤: 深層心理学でも、男性と女性の特質については、相当深く研究されているようです。たとえばユング派心理学の河合隼雄博士は、母性原理はすべてを平等に「包含する」機能によって示されるのに対し、父性原理はすべてのものを主体と客体、善と悪などに分割し、類別していく「切断する」機能によって示されると述べています(河合隼雄著『母性社会日本の病理』、中央公論社)。

名誉会長: 他にも、いろいろ見方はあるでしょう。問題は、それらの違いがはたして先天的で、あらゆる時代、あらゆる社会に共通する普遍的なものかどうか。それとも後天的で、その社会の文化、伝統によって形成された違いなのか。その線引きは極めて難しい。今後の諸学問の研究に期待したいと思う。
たとえば、あるアメリカの女性による、こんな指摘があります。
「男子は子どもの時から危険を冒してみるように育てられるが、女子は安全を求めるものとされた。(中略)かりに女子が危険を求めようとすれば、その子は男のようになりたくてそうしているというわけである。アドラー(編集部注=オーストリアの精神医学者)でさえ、女の子が木に登れば、男の子の真似をしたがっていると言い、女の子だって面白がって木に登るかもしれないとは思わず、男子と同じように女子も危険を冒すことで自主性を養えるとも思っていない」(グレース・ハルセル著『夢と自由と冒険と —- 私が求めた創造人生』、堀たお子訳、サイマル出版会)。
この指摘が正しいかどうかは別にして、我々の意識の中にある「男らしさ」「女らしさ」のイメージは、長い間の文化伝統によって深刻に影響されていることは事実です。
その影響は言語、宗教、制度、教育、学問の在り方など、全社会の毛細血管にまで、しみ通っていると考えられる。ですから大事なのは、男性はこうすべきだとか、女性はこうすべきだとか、あらかじめ決めつけることではなく、第一にも第二にも「人間として」「人間らしく」生きていく努力ではないだろうか。仏法においても、男女の在り方について種々の教えがあるが、説かれた時代・社会における男性観・女性観が当然、反映されています。それらを一概に固定化することはできないでしょう。
大切なことは、女性も男性も、人間として「幸福になる」ということです。幸福になるのが「目的」であり、他は「手段」です。「こうあるべきだ」と決めつけ、それが、どんなに正論のように見えても、それを実行して不幸になったのでは何にもなりません。また女性が不幸のままで男性だけが幸福になれるわけもない。

遠藤: よくわかりました。男性も女性も、「人間として」光り、その結果、おのずとにじみ出てくる男性らしい輝き。女性らしい光彩であればよいということですね。

須田: アメリカにおける戦後のフェミニズム(男女同権論、女性解放論)の火つけ役となった本に、『新しい女性の創造(ベティ・フリーダン著、三浦冨美子訳、大和書房)があります。原著の刊行は1963年です。その第一章は「みたされない生活」です。そこには、女性は「夫と子供と家庭のことだけを心配すればよい」という風潮のなかで、多くの女性が人知れず悩んでいた様子が描かれています。
「ある女性は『どういうわけか無意味に感じるのです —- 満ちたりないのです』と言い、また『生きているような気がしないのです』とも言った。時には鎮静剤でこの気持ちを消す女性もいた。(中略)『疲れきった感じで —- 自分ではっとするくらい子供たちに腹がたつのです —- わけもないのに泣き出したくなるのです』と訴える女性もいた」。
「ある女性は、そんな気分になると、家から駈け出して、道をどんどん歩くのですと、私に話した。時にはどこへも出かけずに家の中で泣くのですとも言った」。

遠藤: その頃のアメリカの中産階級の女性といえば、広い芝生の庭と、進んだ電化製品、明るくて、豊かで —- というイメージでしたね。日本でも、そういうイメージしか伝えられていなかったと思います。その裏側で、そういう「心のむなしさ」に苦しんでいた人々がいたわけですね。

須田: 「女性はこうあるべし」という押しつけに反発し、こういう女性を救おうというところに、今のフェミニズムの大きな動機があると思います。ですから、あくまで目的は女性自身の幸福の実感です。そこを見失って、フェミニズムの運動そのものが自己目的化した場合には、今度は逆の意味で、女性を「かくあるべし」と圧迫してしまうかもしれません。これは、あらゆる運動について言えることですが。

斉藤: 議論が分かれるところでしょうね。フェミニズムにも多くの流れがありますから —- 。キリスト教においても「フェミニズム神学」が注目を集めています。
キリスト教の神学における男性優位の傾向を批判したり、教義が男性による女性の支配の道具とされてきたことを批判しています。

遠藤: 女性差別の根源は「父なる神」という概念にあるとして、「父にして母なる神」と言いかえるべきだという主張もありますね。

斉藤: こういう動きに対して、批判もありますが、その真撃さは評価すべきだ、と思います。