法華経の智慧134   投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月30日(木)12時29分12秒     通報
須田: こういう釈尊の精神は、小乗仏教(部派仏教)の時代になると急速に失われてしまいます。小乗仏教は釈尊を人間離れした存在として神格化しました。そして、人間はとても仏にはなれない、声聞の最高の悟りである阿羅漢の境地でさえも男性の出家でなければ得られないと主張するようになったのです。在家と女性に対する差別も公然と行われるようになりました。そういうなかから「五障説」も生まれたとされています。

遠藤: 釈尊が入滅して100年後(200年後説もある)と言われているアショカ王の時代でも、すでに僧侶の堕落が指摘されています。権威と差別に傾いて釈尊の心を見失った小乗仏教。これに対し、“釈尊の精神に帰れ”という「ルネサンス運動」を起こしたのが大乗仏教です。
そこで大乗経典では、さまざまな形で「女人成仏」が説かれるようになりました。たとえば「無量寿経」や「大阿弥陀経」にも阿弥陀如来の本願の一つとして「女人往生」があります。もちろん女性の身のままでは浄土に往生できないわけですが。
また「勝鬘経」や「維摩経」では「空」の法理を強調して、男女という区別にとらわれること自体が迷いであり無意味であると主張し、小乗仏教の女性差別を批判しています。

斉藤: 「変成男子」の形で女人成仏を説く大乗経典は、たくさんあります。「宝積経」「大集経」「般若経」などです。提婆品で竜女の「変成男子」が説かれるのも、こうした大乗経典の延長にあると一往は考えられます。しかし、法華経では即身成仏を説いているわけで、変成男子を成仏の条件にしているわけではありません。ですから、これらの経典と根本的に異なると言えます。

名誉会長: 法華経では、悟りにおいても修行においても男女平等です。たとえば法師品(第十章)では「是の善男子、善女人は、如来の室に入り、如来の衣が著、如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし」(法華経 p394)とある。善男子・善女人すなわち男女が等しく仏に代わって法を説く資格があることを宣言している。
勧持品(第十三章)では、女性に成仏の授記が与えられています。
また不軽菩薩が「我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず」(法華経 p567)と礼拝した相手も、在家と出家の男女です。女性が成仏することが当然の前提になっています。ですから日蓮大聖人が「女人成仏の事は此の経より外は更にゆるされず」(御書 p472)と仰せの通りなのです。
「竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす、法華己前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏・往生をゆるすやうなれども或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり」(御書 p223)ともある。

遠藤: 「改転の成仏」というのは変成男子のように、その身を改めて成仏するという思想ですね。その身を改めなければならないとすること自体、じつは十界互具・一念三千がわかっていないことです。一念三千という生命の実相を離れれば、いくら成仏できる、浄土に往生できると言っても、“空手形”のようなもので、実際には成仏の実体はない。そこで「有名無実」(名のみ有って、実体はない)」と仰せです。

須田: 日蓮大聖人の仏法においては、男女の平等観は徹底されています。
有名な「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず」(御書 p1360(末法で妙法を広宣流布していくにあたって、そこに男女の差別・えりごのみは絶対にあってはならない)の御文もそうです。また「此の経を持つ女人は一切の女人に・すぎたるのみならず一切の男子に・こえたり」(御書p1134)とも仰せです。

斉藤: 「日妙聖人」「光日上人」と、女性を「聖人」や「上人」の称号で呼んでおられる。この事実にも、大聖人の女性観が表れていますね。

名誉会長: そのお振る舞いは、当時の日本の社会や仏教界にあって、きわ立っていた。大聖人ほど女性をたたえ、女性を尊敬された仏法者はいなかったでしょう。

須田: 当時、伝統仏教界は、比叡山にしても高野山にしても、東大寺、醍醐寺も、いわゆる旧仏教の官僧寺院は女人禁制です。また鎌倉新仏教と呼ばれる念仏・禅宗なども、それなりに女性救済に目を向けましたが、あくまで、男性の身に変わってから成仏する、往生するという説でした。

名誉会長: そういうなかで大聖人は「法華経の行者は男女悉く世尊に非らずや」(御書 p813)と宣言されていたのだから、偉大だね。