投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月30日(木)06時34分11秒     通報
■ 差別社会と戦った釈尊

須田: 女性差別は、釈尊の精神に真っ向から背くものですね。釈尊の時代のインド社会も、極端な女性差別の時代でした。バラモン教の経典にも、女性に対する“悪口雑言”が、おびただしく並んでいます。
そのなかで、釈尊が女性をまったく差別しなかった。熟慮した結果、女性が出家修行者になることも認めています。釈尊の育ての親であった摩詞波闍波提比丘尼、出家以前の妻であった耶輸陀羅比丘尼も出家しました。当時、これは画期的なことだったと言われています。

遠藤: バラモン教では、出家も男性に限られていましたからね。

須田: ところが、仏教においては、釈尊の在世も、釈尊の滅後まもない時代にも、多くの女性出家者が活躍しています。その様子は『尼僧の告白 テーリーガーター』(中村元訳、岩波書店)というパーリ語仏典にうかがえます。中村元博士は、その「あとがき」で次のように述べています。
「尼僧の教団の出現ということは、世界の思想史においても驚くべき事実である。当時のヨーロッパ、北アフリカ、西アジア、東アジアを通じて、(尼僧の教団)なるものは存在しなかった。仏教が初めてつくったのである」と。比丘尼たちの、かつての境遇もさまざまでした。中村博士は述べています。
「尼僧も、かつて世俗の生活のうちにあった時には、唯の女人であった。彼女らは濁悪の世に生き、この世に生きる苦しみ、つらさをつぶさに体験していた。夫に死なれ、子を亡い、人々にさげすまれ、生きて行くのがやっとのことであったという人々もいた。男運が悪くて、何度結婚しても破局を迎えるという、気の毒な、不運な女性もいた。(中略)あまりのつらさに自ら死を決意した人々もいた」(中村元訳、前掲書)と。
もちろん、なかには裕福で、才能や美貌に恵まれた女性もいました。しかし、そういう女性も老いと死の問題に直面して苦悩せざるを得ませんでした。釈尊が、さまざまな女性に対し、「ここに幸福への道がある」と教えたのです。

名誉会長: こういう悩みは今も同じですね。釈尊は出家・在家を差別しなかったから、在家の女性にも平等に幸福への道を示したことはいうまでもない。また、在家の女性信者の中には頻婆娑羅王の妃(韋提希夫人)や阿踰闍国の王妃(勝鬘夫人)などもいたが、釈尊の態度は、庶民と接する態度と変わらなかった。
「生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」(『ブッダのことば(スッタニパータ)』中村元訳、岩波書店)という有名な言葉がある。釈尊は厳しい差別社会にありながら、身分や性別、出身、僧俗の違いなどは、まったく問題にしなかった。だからこそ保守的な差別主義者から危険人物とされ、迫害されたともいえる。

遠藤: 釈尊の平等の精神は、初めのうちは、教団内に生き生きと脈動していたようです。ある尼僧は、女性は絶対に悟りを得ることができないと囁く者に対して、堂々と言い返しています。心も安定している、智慧も現に生じている、悟りを得るのに「女人であることが、どうして妨げとなろうか」(『尼僧の告白テーリーガーター』、中村元訳)と。
また、この尼僧の言葉を裏付けるような釈尊の説法も伝えられています。「男女の区別があるが、しかし人の本性に差別があるのではない。男が道を修めて悟りを得るように、女もまた道を修めれば、然るべき心の道筋を経て、悟りに至るであろう」(田上太秀著「律大品」『仏教と性差別』東京書籍)と。

名誉会長: 男性であろうが、女性であろうが、その人が何をしたかによって、高貴にもなれば卑しくもなる。問題は「行為」である。「心」である。それが釈尊の精神でしょう。

斉藤: もちろん初期の経典の中にも、釈尊の言葉として、女性についての厳しい表現が伝えられています。しかし、それは男性の修行者に対して、女性に迷うことなく修行するよう戒めたものと考えられます。

遠藤: たしかに、女性に関する釈尊の説法は、出家者に対するものと在家者に対するものとでは、まったく違うという指摘もあります。出家教団の中で厳格な修行を続けさせるために説かれたものだけを見て、釈尊に女性差別があったと見るのは、正しくないと思います。

須田: 男性の出家者は二百五十戒、女性の出家者は三百四十八戒、五百戒と、女性のほうに厳しいのも、当時の社会背景と関係していると思います。また、それだけ女性が毅然としていてくれないと、男性はすぐに、ふらふら迷ってしまうということかもしれません(笑い)。

名誉会長: 少なくとも、こうは言えるでしょう。
初期仏典に伝えられる釈尊の言葉が、どこまで釈尊の肉声を伝えているか、わからない。しかし「事実」として、釈尊は女性にも出家を許したし、厳格な修行をさせている。修行するのは当然、「修行すれば悟りが得られる」という大前提があるからです。その可能性がないならば、女性の修行者を許すはずがありません。この一点だけでも、釈尊の平等観はうかがえるのではないだろうか。
『尼僧の告白 テーリーガーター』の中でも、「わたしの心は解脱しました」「もろもろの悲しみの起るもとである根底を、わたしは、知りつくして、捨て去った」「わたしは、安らぎを現にさとって、真理の鏡を見ました」等々、釈尊が教えた平安の境地に達した喜びが次々に語られています。