投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月29日(水)19時40分27秒     通報
■ 変成男子は“わからせるため”の方便

名誉会長: いや、それは違う。竜女の成仏は、あくまでも「即身成仏」です。女性の身のままで成仏したのです。変成男子は、舎利弗をはじめ、成仏は男性に限られると思いかんでいた人々に対して、竜女が成仏したことを、わかりやすく示すための方便にすぎないでしょう。 男性にならなければ成仏できないという意味ではないのです。
そのことは、一番初めに文殊菩薩が竜女のことを紹介するくだりで、すでに明確です。竜女がすでに成仏していると文殊菩薩は語っているのです。

遠藤: 少し長いですが、大事なところなので読んでみます。
「娑竭羅龍王の女、年始めて八歳なり。智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、諸仏の所説の甚深の秘蔵悉く能く受持し、深く禅定に入って、諸法を了達し、刹那の頃に於いて、菩提心を発して不退転を得たり、弁才無礙にして、衆生を慈念すること、猶、赤子の如し。功徳具足して、心に念い口に演ぶること、微妙広大なり。慈悲仁譲、志意和雅にして、能く菩提に至れり」(法華経 p429)。

(娑竭羅龍王の娘は、年はやっと八歳である。智慧にすぐれ、衆生のさまざまな素質がどのように現われるかを知っている。法の精髄を記憶して忘れずに、悪を防ぐ力を得ている。多くの仏が説いた奥深い秘蔵の法を、ことごとく受持できている。深く禅定に入って、諸法を完全に会得し、悟りを求める心をおこして、もはや退くことのない境地を一瞬のうちに得た。その弁舌の才能は自由自在であり、衆生を慈しみ、常に思っていることは、あたかも母が赤子に対するようである。あらゆる修行の功徳を具え、心に思い、口に述べることは、深遠で素晴らしく、また広大である。慈悲があり、情けは深く、心は穏やかで優雅で、よく悟りに到達した)

名誉会長: まさに仏の姿です。また理想の女性像、人間像とも言ってよいと思う。

斉藤: 「諸法を了達し」「不退転を得」、人々を救う慈悲と智慧と力を具え、「能く菩提に至れり」というのですから、すでに成仏していたということですね。
また竜女自身が自分のことを「菩提を成じた(悟りを得た)」と言っています。

遠藤: 竜女は、通常の成仏観から見れば、一番、成仏に遠い条件を備えているように見えます。つまり、 (1)畜身であること (2)女性であること (3)八歳という年少てあること —- の三つです。竜女が成仏したといっても、外面の姿だけを見ていたのでは、とてもわかりませんし、人々には信じられなかった。
そこで、舎利弗らの低い機根に合わせて(笑い)、わからずやの人々が「これならわかる」という姿を示した。これが「変成男子」ということでしょうか。

名誉会長: そうなるでしょう。「変成男子」は、他の大乗仏典の中でも多く出てきます。これも、本来、大乗仏教の「空」の立場から言えば、男性・女性という違いにこだわること自体、おかしな話だし、理論上はまったく必要がない。しかし、それが説かれた時代に、「女性がその身そのままで仏に成る」という思想には、大きな抵抗が予想されたのでしょう。

遠藤: 当時のインド社会は女性差別の社会ですから —- 。また仏教においても、それまでの小乗教においては、女性は強く差別されてきました。だから、たしかに、「いったん男性に成ってから成仏する」と説いたほうが、クッションがあって、受け入れられやすかったと思います。

須田: いわば“妥協の産物”でしょうか。

名誉会長: そういう面があるでしょう。本来、仏教は、生きとし生けるものを、ひとつの黄金の大生命の個々の現れと観る。それが釈尊の悟りです。それを「縁起」とも言い、「空」とも言い、「妙法」とも言うのです。その悟りの眼から見れば、男女間の上下の差別など、ありえない。ただ、その「法」を社会に広め、定着させていくには、どう説けば受け入れられるかを考えなければならない。「随自意(悟りそのものを、そのまま示すこと)」の信念の上に、「隋他意(人々の機根や傾向に従って説き、次第に悟りに導くこと)」の智慧が必要な場合がある。
法華経以前の大乗仏教の「変成男子」説も、よく言えば、“女性は永遠に成仏できない”としていた小乗の思想を打ち破る革命的な教えだったとも言える。

斉藤: いきなり真実そのままを説いても、抵抗が大きすぎたということですね。そして法華経に至って、初めて「随自意」の「女性の即身成仏」を宣言した。

名誉会長: ただ問題は、そういう「社会への適応」のなかで、宗教者自身が、次第に社会の差別意識にとらわれてしまう場合です。それでは「法」は、ゆがめられてしまう。その結果、ゆがんで伝えられた教えが、社会の差別意識をさらに助長し、固定化する“悪”となることも多い。
仏教の女性観を歴史的にたどっても、そういう紆余曲折があったのではないだろうか。

遠藤: そう思います。舎利弗が語った「五障説(女性は梵天・帝釈・魔王・転輪聖王・仏にはなれないと説く」は、その典型です。
この説は、釈尊滅後に、出家憎が権威主義化した小乗仏教(部派仏教)の時代にできたとされます。小乗仏教では、当時のインド社会の差別主義に影響されて、女性と在家に対するあからさまな差別が行われるようになっています。そこには多くの男性出家者がバラモン出身であり、その体質を捨て切れなかったという事情が背景にあるかもしれません。