投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月29日(水)13時08分32秒     通報
■ 女性が成仏してこそ男性も成仏
提婆達多品から
「龍女、一つの宝珠有り。価値三千大千世界なり。持って以って仏に上る。仏即ち之を受けたもう。(中略)女の言わく、汝が神力を以って、我が成仏を観よ。復、此れよりも速かならん」(法華経 p432)

龍女に一つの宝珠があった。その価値は三千大千世界(宇宙)に匹敵した。それを仏に差し上げると、仏は即座に受け取られた。(中略)竜女は(舎利弗らに向かって)言った。「あなたの神通力をもって、私が成仏している姿を観なさい。(私が悟りを得たことは)これ(仏との宝珠の受け渡し)よりも、もっと速かなのです」
名誉会長: だれもが「性得の宝珠(仏性)」をもっている。一切衆生が平等に「宝珠」を生命にもっているのです。そう見るのが十界互具であり、一念三千であり、法華経です。十界の中には畜生界もある。 竜女は畜身ですが、当然、畜生界にも仏界が具わっている。しかし、差別観にとらわれた目には、それが見えない。
生きとし生けるものに仏界を観る法華経です。女性への差別など、微塵もありようがない。女性は成仏できないなどというなら、それは一念三千ではありえない。一念三千を否定するならば、自分自身の成仏もない。
ゆえに、竜女の成仏は、全女性の成仏を表すだけでなく、じつは男性の成仏をも表しているのです。女性の成仏を否定する男性は、自分の成仏を否定しているのです。皆、そこが、なかなかわからない。

斉藤: 前に、二乗作仏のところで、菩薩たちが、「二乗は成仏できないが自分たちはできる」と思いこんでいた。しかし、一念三千がわかってみると、二乗が成仏できないとしたら、自分の生命の二乗界も成仏できず、自分の成仏もなかったのだと気がつく —- それに似ていますね。

須田: 「人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏」(御書 p401)ということが、菩薩たちには、わからなかった。

名誉会長: 人ごとだと思っていたのです。しかし、どんな差別でも、だれかを差別するということは、自分自身の生命を差別することなのです。だから竜女は、この時、舎利弗や智積に向かって、こう叫びます。「汝が神力を以って、我が成仏を観よ」(法華経 p433)と。
大聖人は、この叫びを、「舎利弗竜女が成仏と思うが僻事なり、我が成仏ぞと観ぜよと責めたるなり」(御書 p747)「舎利弗よ、これを『竜女の成仏』と思うのが見当違いなのだ。『我が成仏』なのだと観ていくのだ」と(竜女が舎利弗を)責めたのである —- と仰せです。

遠藤: 舎利弗も智積菩薩も、やられっぱなしですね(笑い)。
そもそも菩薩は「一切衆生を成仏させてから、その後に自分も成仏しよう」という誓願を立てています。一切衆生の半分は女性ですから、女性が成仏しない限り、自分も成仏しないのは、当然といえます。

須田: しかし、差別意識の根は深い。理論だけでは、なかなか、そのとらわれを除くことは難しいものです。その意味で、提婆品の象徴的な表現は、「現証」によって女人成仏を教えようとしていると思います。

名誉会長: そうかもしれない。次の「変成男子(変じて男子と成って)」(法華経 p433)のところも、具体的に成仏の姿を示したものです。

須田: はい。「我が成仏を観よ」と叫ぶや、竜女は、人々の見ている前で男性に変わります。さらに南方の「無垢世界」に行って、成仏の証明として皆にわかるように、「三十二相・八十種好」を具え、一切衆生に妙法を説いている姿を顕して見せるのです。その姿を、はるかに見た娑婆世界の衆生は大いに歓喜し、最敬礼しました。
そして、彼らも不退転の境地を得て、成仏の授記を受けました。これらの「現証」を眼前に見て、智積菩薩と舎利弗は沈黙せざるを得ませんでした。提婆品は、ここで終わっています。

斉藤: この「変成男子」について、成仏するために男性の姿に変わらなければならないというのであれは、やはり女性はまだ差別されているのではないか、という意見があります。