2015年7月29日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年 7月29日(水)06時29分8秒 通報 斉藤: 文殊の竜宮での弘教は、宝塔品が説かれているわずかの間であったと大聖人は仰せです。そのわずかの間に、文殊は多くの衆生を教化し、竜女は悟りを得たのですが、それは全部、「法華経の力」を示しているとも仰せです。 (「文殊の教化によりて海中にして・法師・提婆の中間わづかに宝塔品を説かれし時刻に仏になりたりし事は・ありがたき事なり、一代超過の法華経の御力にあらずば・いかでか・かくは候べき」(御書 p1348)) 名誉会長: 智積は、その「法華経の力」がわからなかった。だから竜女が即身成仏したといっても信じられなかった。「不信」です。妙法への不信は、日蓮大聖人が「根本無明」(「御義口伝」(御書 p746))と言われている。それは自分自身の生命に暗いことであり、結局、自分自身の生命への不信です。また大聖人が、智積の不信を「別教の意なり」(同)と仰せのように、菩薩の五十二位など、「多くの段階を経なければ成仏できない」という考えを智積は代表しています。 これに対し、竜女は、法華経という円教を代表している。旧思想の男性軍に対して、新思想を身をもって示しているのが竜女なのです。提婆品は、そういう「思想劇」の側面を強くもっている。深遠な内容を、劇的なストーリーによって表現しています。だから聴く人を飽きさせない。 遠藤: 次のところもそうですね。智積が不信の言葉を言い終わらないうちに、突然、竜女本人がその場に現れます。 須田: ドラマチックですね。 遠藤: 竜女は、釈尊にあいさつして言います。「仏のみが自分の成仏を知ってくださっています。私は大乗の教え(法華経)を開いて、苦悩の衆生を救ってまいります」(法華経 p431 趣意)と誓うのです。 名誉会長: 「我大乗の教を闡いて 苦の衆生を度脱せん」。有名な言葉です。素晴らしい言葉です。 “皆は自分をバカにしているかもしれない。しかし、そんなことはどうでもよい。真実は仏がわかってくれている。自分はただ、自分を救ってくれた妙法の力で、人々を救っていくだけだ”と。 即身成仏とは、「苦しむ人を救わずにはおくものか」という仏の強い心を、我が身に開くことなのです。バカにされようが、差別されようが、にっこり笑って、悠々と、不幸の人々を救っていくのです。その人は、その身そのままで、仏と輝いていくのです。 須田: 男性側は、わからずやというか(笑い)、このあとも「不信」の言葉が続きます。 竜女の決意を聞いて、今度は、舎利弗が不信を表明するのです。舎利弗の不信の理由は二つあります。一つは、智積と同じで、仏の悟りは長い長い間の苦行によって得られるものだという固定観念です。 もう一つは、女性は梵天・帝釈・魔王・転輪聖王・仏には成れないという「五障」の説です。ここから、女性の身で速やかに成仏するなどということはありえない、と竜女を非難するのです。 斉藤: 天台大師は「身子(舎利弗)は三蔵の権を挟んで難ず」(法華文句)と述べています。「五障」の説は「三蔵の権」つまり仮に説かれた小乗教の説ですね。 ──────────────────────────────────────── 提婆達多品から(p119) 「舎利弗、竜女に語って云く、汝久しからずして、無上道を得たりと謂えり。是の事信じ難し。所以は何ん。女身は垢穢にして、是れ法器に非ず。云何ぞ能く、無上菩提を得ん」(法華経 p431) 舎利弗は竜女に語った。「あなたは短い間に無上道の悟りを得たと思っているが、このことは信じがたい。なぜかと言えば、女性の身は、けがれていて、仏法を受け入れる器ではないからだ。どうして無上の悟りを得ることなど、できるであろうか。(できるはずがない)」 ──────────────────────────────────────── 遠藤: 舎利弗は、ここでは、いわば小乗教の代表選手で、悪役です(笑い)。 名誉会長: これら「歴劫修行の成仏観」も「五障の説」も、竜女が即身成仏の現証を示すことによって、見事に破折されるわけだね。 須田: はい。竜女は、三千大千世界すなわち宇宙全体の価値に等しい一つの宝珠を取り出して、釈尊に奉ります。釈尊は、これを直ちに受け取ります。そして、竜女は、これを見ていた舎利弗に対して、自分の成仏は、この宝珠の受け渡しよりも速やかなのだと言い放ちます。 名誉会長: 象徴的な表現だが、根本的な破折になっている。 「宇宙全体と同じ価値を持つ宝珠」とは、宇宙の根源の法である「妙法」を象徴しています。また、妙法の当体である自身の「生命」の象徴であると言ってもよいでしょう。 それを仏に捧げるということは、かけがえのない自分の身命を捧げることです。つまり、帰命であり、南無することであり、信心です。 宝珠を仏が受け取ったということは、竜女の生命が仏と一体になったということであり、竜女の成仏を仏が証明しているのです。また宝珠とは一念三千の宝珠のことです。仏にそれを捧げたとは、竜女が一念三千の妙理を悟っていることを表している。 遠藤: 「御義口伝」では、こう仰せです。「竜女が手に持てる時は性得の宝珠なり仏受け取り給う時は修得の宝珠なり」(御書 p747)と。 性得の宝珠とは竜女が本来具えている仏性であり、修得の宝珠とは、仏性を修行によって現したということでしょうか。 Tweet