投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月28日(火)12時59分3秒     通報
斉藤: 考えてみれば、提婆達多と同じような悪の生命は、誰の中にもあるわけですから、悪を具している者が成仏できないというのであれば、誰も成仏できないことになってしまいます。つまり、悪人の成仏・不成仏は悪人だけの問題ではない。じつは一切衆生の問題だったわけです。これは前に二乗の成仏のところでも論じたところですが。

名誉会長: 十界互具の法理とは、いわば仏の中にも悪があり、悪人の中にも仏性があるということです。それを端的に示したのが提婆達多の成仏です。だから提婆達多の成仏が説かれなければ、法華経は完結しないともいえるでしょう。

遠藤: 悪の対極にあり、悪を断じ尽くしたのが仏であるという固定的な考え方は、ある意味ではわかりやすい。しかし、実際の人間には悪の命があり、それを完全に断ち切ることはできないわけです。だから悪のない仏という説き方では、仏といっても観念的な存在に過ぎず、現実に凡夫が成仏するということはあり得ないことになります。
そのことを大聖人は「実を以てさぐり給うに法華経己前には但権者の仏のみ有つて実の凡夫が仏に成りたりける事は無きなり」(御書 p403)と指摘されています。

名誉会長: 一念三千の法理が明かされていないために、爾前経で衆生の成仏が説かれたとしても結局、言葉だけで実体がない、つまり有名無実ということになる。法華経はそのような観念論ではない。現実に人々の生命から苦悩の剣を抜き取り、幸福へと導く力がある。人々を成仏せしめていく本源力 —- 法華経の法体こそ南無妙法蓮華経です。

斉藤: 善悪の関係ということについては、一つには爾前経のように、善と悪を対立するものとして固定的にとらえる見方があります。また、一方では善悪は表と裏のようなものであるとして、一つの生命の違った側面であり、体は一つであるとする見方もあります。

名誉会長: 「善悪不二」というと、後者の見方ではないかという人もあるが、そうではない。それでは善悪が見方の違いということになり、生命それ自体が固定されたものになってしまう。そのような見方では、生成流動してやまない生命の姿がありのままにとらえることはできません。真意は、あるときは善の価値、あるときは悪の価値を生みながら、その生命の当体は一つであると見ていかなければならない。

須田: いま、善悪について、合わせて三つの見方が示されました。これは、中国天台宗の四明知礼(960~1028年)が「即」の考え方について分類した「二物相合」「背面相翻」「当体全是」の三つに当たります。
まず善悪は別々のものであるから悪を滅していけば善が現れるというのが「二物相合」に当たります。善悪は一つのものの表と裏のようなものとするのが「背面相翻」に当たります。そして、善と悪があくまでも対立して現れるものであるが、その善なら善、悪なら悪と現れている当体が、実相においては、善悪不二であるととらえるのが、「当体全是」です。

名誉会長: その分類は難しいが、たとえば「瞋恚は善悪に通ずる者なり」(御書 p584)と大聖人は言われている。悪への正義の怒りは善。エゴの怒りは悪。怒りそのものが善いとか悪いとかは言えません。善悪は「関係性」です。だからこそ、積極的が「善の関係」を創っていくことです。
牧口先生は、獄中にあっても対話を続けられた。「悪いことをするのと、善いことをしないのは同じか違うか」。こういう質問を、違う獄房の人にも聞こえるように言って考えさせたというのです。普通なら、「悪いことをする」よりは「善いことをしない」ほうが、まだましと考えるでしょう。悪いこともしないが、かといって善いこともしない —- それが、多くの現代人の生き方にもなっている。しかし、牧口先生は「善いことをしない」のは「悪いことをする」のと同じだと言うのです。
たとえば、だれかが電車のレールの上に石を置いたとする。これは悪です。一方、それを見ながら注意もせず、石を放置した人がいるとする。この人は、自分では確かに悪いことはしていないかもしれない。しかし、善いこともしなかった。そのため、結果として、もしも電車が転覆したならば、悪いことをしたのと同じだというのです。悪を放置し、悪と戦わなければ、それ自体が悪なのです。
ここから牧口先生は「積極的に善をなす」人生を教え、自らも実行された。しかも、小乗を積み重ねてもだめだと。「チリが積もって山となるというが、実際にチリが積もってできるのは塚くらいである」 —- 牧口先生の表現は面白いね(笑い)。また的確です。
“山は地殻変動によってできるのだ。人間と社会の根底から変革していかなければ、間に合わない。それが大善であり、法華経を弘めることである”と結論されたのです。

斉藤: 「悪と戦わないのは、悪をなすのと同じだ」ということですね。この思想は、自分以外のことに無関心に生きている現代人に対する鋭い警鐘であると思います。

名誉会長: アメリカの人権運動の闘士、マーチン・ルーサー・キング牧師の闘いもそうでした。「悪を、おとなしく受け入れる者は、悪を助ける者と同じく悪に加担することになる。悪に抵抗しない者は、悪に協力したことになるのだ」と。

須田: 何回かアジアの各国を訪問させていただきましたが、牧口先生の説く「積極的人生」が強く人々を引きつけていることを感じます。
特に、世界的に何が善で何が悪かということがはっきりしなくなっています。そういうなかで、「積極的に善を創造していく」という仏法の行き方こそ光明だと思います。

名誉会長: その通りです。イデオロギーが崩壊した「哲学なき時代」を、エゴが野放しになる危険な時代にしてはならない。古い哲学の廃墟の上に、冷たいニヒリズム(虚無主義)を君臨させてはならない。確固たる「生命の道」を示し、希望の太陽を君臨させなければなりません。
善と悪については古今東西、さまざまな哲学的議論がある。それをたどることは今はしないが、ともかく「生命こそ目的であり、生命を手段にしてはならない」。
これが大前提です。その尊極の生命をより豊かにし、より輝かせるのが善。生命を萎縮させ、手段にするのが悪と言えるでしょう。また「結合は善」「分断は悪」です。
ゆえに最高善は、人々の仏界を開くことであり、人々の善意を結びつけることです。仏法を基調とした平和・文化・教育の運動、すなわち広宣流布の運動こそ最高善なのです。この行動の持続に、悪をも善の一部にしていく「善悪不二」のダイナミックな実践があるのでです。
自分を見つめ、自分と格闘しながら進むのです。自分に勝利して進むのです。その人が提婆品を読んだことになる。釈尊と提婆達多との激闘といっても、つまるところ、我が身一身に納まるのです。そう読むのが文底の法華経です。
タゴールの美しい言葉があります。
「悪は河における岸のごときものである。岸は流れを堰きとめるが、それは流れを推し進めるよすがとなる。この世の悪は、人間を水の流れるごとく善に向かわしめるために存在する」(『タゴール著作集』、美田稔訳、第三文明社参照)。
悪との「限りなき闘争」を続けながら、いよいよ水かさを増して、世界に「善の大河」を広げていきたいものです。