投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月28日(火)06時29分3秒     通報
■ 悪と戦い、打ち勝ってこそ「善悪不二」

須田: その点について「当体義抄」にはこうあります。難解ですが —- 。
「真如の妙理も亦復是くの如し一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇えば迷と成り善縁に遇えば悟と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり、譬えば人夢に種種の善悪の業を見・夢覚めて後に之を思えば我が一心に見る所の夢なるが如し、一心法性真如の一理なり夢の善悪は迷悟の無明法性なり、是くの如く意得れば悪迷の無明を捨て善悟の法性を本と為す可きなり」(御書 p510)
生命の実相は善悪不二であり、善も悪も生命に具わっている。だからこそ、実践の上では、法性を根本とし、善を目指さなければならないと。

名誉会長: そう。仏法は勝負です。限りなき闘争です。釈尊が提婆達多に勝ったからこそ提婆の「悪」が釈尊の「善」を証明することになった。悪に負けてしまえば、善知識であったとは、とても言えない。戸田先生は明快に言われています。
「提婆達多は釈迦一代にわたる謗法の人で、一切世間の諸善を断じた。ゆえに爾前経では『悪がなければもって賢善を顕すことができない。このゆえに提婆達多は無数劫以来、常に釈迦とともにあって、釈迦は仏道を行じ提婆は非道を行じてきた。しこうして互いに相啓発してきたものである』と。しかるに対悪顕善(悪に対して善を顕す)が終われば悪の全体はすなわちこれ善である。ゆえに法華経では善悪不二、邪正一如、逆即是順(逆縁も即ちこれ順縁)となるのである。このことは爾前経ではいまだ説かれなかった奥底の義である」。
悪もまた善を顕す働きをするのであれば、悪の全体がそのまま善になります。まさに善悪不二です。しかし、自然のままに放置していて、悪が善になるのではない。悪と戦い、完膚なきまで打ち勝って、はじめて善悪不二となるのです。
その意味で、提婆品の「悪人成仏」とは、釈尊による「善の勝利」の偉大な証明です。勝利宣言です。その「勝者」の境涯が高みに立ってはじめて、提婆が過去の善知識であり、自分の師匠であって、今世で自分の化導を助けてくれたのだと言えるのです。

斉藤: あくまで、「事実」というよりも、生命の理法を説かんがための説法ということでしょうか。

名誉会長: 「生命の真実」であると言えるでしょう。提婆達多も、生命の真実の姿においては、善悪不二です。無明と法性が一体の妙法の当体です。釈尊が師とした過去世の提婆達多とは、じつは、この妙法そのものだったと言えるのです。
ゆえに大聖人は「提婆は妙法蓮華経の別名なり過去の時に阿私仙人なり阿私仙人とは妙法の異名なり」(御書 p744)と仰せです。釈尊も根源の妙法を師として成仏しました。そのことを提婆品では、釈尊が過去世に阿私仙人を師匠として修行し、成仏したという表現で示したと考えられます。

遠藤: 「善悪不二」というのは、決して「善も悪も同じだ」ということではないですね。

須田: そういう考え方だと、これは悪をも肯定してしまいます。日本天台宗が陥った「本覚思想」のようになってしまう。そうではなく、つねに「善」を創造し、悪をも善に変えていくというのが法華経の「善悪不二」論ですね。

名誉会長: そう、悪知識をも善知識に変えるのが妙法の力であり、苦悩をも喜びに変え、追い風に変えるのが信心の一念の力です。提婆品は、このことを教えているのです。
日蓮大聖人は、「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり」(御書 p917) —- 釈迦如来の御ためには、提婆達多こそ第一の善知識である。今の世間を見ると、人を立派にしていくものは、味方よりもむしろ強敵が人を立派にしていくのです —- と言われている。
成仏するには「内なる悪」に勝利しきらなければならない。そのためには具体的には「外なる悪」と戦い、勝たねばならない。悪と戦うことによって、生命が鍛えられ、浄められ、成仏するのです。極悪と戦うから、極善になるのです。自分の生命を鍛え、成仏させてくれるという本質論から見たときには、その極悪も師匠とさえ言えるのです。
ゆえにポイントは、極悪の提婆達多をも過去の師匠なり、と説く釈尊の「大勝利の境涯」にあります。勝ったからこそ、そう言えるのです。勝ったからこそ仏なのです。
日蓮大聖人も大勝利されたからこそ、こう仰せなのです。「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべき」(御書 p917)と。
御本仏を迫害した「悪」の存在をも「善」に変えてしまわれた。実際、大聖人や釈尊のそういう戦いの模範があったからこそ、後世の私どもは「正道」がどこにあるかわかる。その意味で、提婆も平左衛門尉たちも、反面教師として、後世に「善の道」を示してくれている、といえるでしょう。
創価学会も、ありとあらゆる迫害・弾圧・策謀に全部、打ち勝ってきました。その戦いによって、皆の信心が深まり、強くなった。難もなく、簡単に広宣流布ができたら、鍛えの場がなく、成仏する修行の場がなくなってしまう。難即前進です。煩悩即菩提です。一切の苦悩を即幸福へのエンジンとしていくのです。一切の悪を、善の炎がいや増して燃えさかるための薪としていくのです。

斉藤: 提婆達多品の意義が、ぐっと深く感じられるようなりました。

遠藤: それにしても、提婆品を初めて聞いた人は、びっくりしたでしょうね。

須田: ええ、極悪の提婆達多が、たとえ懺悔したとしても、成仏の授記を受けるということは、爾前経では到底ありえないことですから。

斉藤: 方便品で諸法実相が説かれ、理論的には十界互具がわかっているはずです。しかし、その法理が必然的に「悪人成仏」と「女人成仏」をも意味しているとは、舎利弗ですらわからなかったかもしれませんね。

名誉会長: そうだね。あとのところで、どうしても女人成仏が信じられない、と頑迷なところを見せているからね(笑い)。理論がわかっても、生命は、まだ無明に支配されていることが多いからです。だから、生命を磨く実践が大切なのです。

遠藤: 本来、一切衆生の誰もが平等に成仏できる、というのが法華経全体の心ですから、悪人であった提婆達多だけを成仏から除外することは、むしろ矛盾になってしまう。法華経の精神からすれば、提婆達多への授記は必然であるといえます。大聖人も提婆への授記が「地獄界所具の仏界」と仰せられています(御書 p240)