2015年7月27日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年 7月27日(月)19時51分46秒 通報 ■ 極悪の提婆をも「善知識」と 遠藤: それでは、提婆品の概要を見てみたいと思います。初めに、釈尊と提婆達多の過去世における因縁が説かれます。すなわち、釈尊が過去世に大国の王であったとき、菩薩行を実践し、人民のために身命も財産も惜しまずに尽くしていました。 斉藤: 名君ですね。政治の根底は慈悲であり、本来、菩薩行なのですね。 遠藤: しかし、王は、まだあきたらず、すべての人を救える大乗の法をさらに求めます。民衆の真の平和と安穏を実現するための哲学を求めたということです。偉大な指導者は、民衆のために、偉大な哲学を求めるものです。 須田: 王位をも捨てて求めたと、説かれています。反対に、権力維持や保身のために、思想や宗教を支配しようとするのは“顛倒の指導者”ですね。 遠藤: 王の求道心に応じて現れたのが、阿私仙人です。仙人は、自分の言葉通りに修行すれば、法華経を説こうと王に語ります。王は歓喜して、水を汲み、薪を拾うなど、懸命に働いて仙人に仕えます。その修行が千年も続いたが(千歳給仕)、心に妙法を求めていたので、心身、ともに疲れることはなかった。その結果、遂に王は成仏します。 不思議なのは、王が阿私仙人に仕えて大変な修行をしたことは強調されていますが、肝心の法華経を教えてもらったかどうかは必ずしも明確ではありません。 名誉会長: それについては、「御義口伝」で、王の修行以外に妙法蓮華経の伝受はないと仰せです。修行そのもの、行動そのものに妙法蓮華経が伝えられるのです。妙法を求め抜く心に妙法が現れるのです。私たちの自行化他にわたる唱題行が、まさに妙法伝授の修行なのです。広宣流布のために、限りなく心を尽くし、身を尽くしていくのが、現代の「千歳給仕」です(御書 p745 趣意)。 遠藤: このように過去のことを述べた釈尊は、過去世の師である阿私仙人とは、じつは提婆達多であると種明かしをします。そして、今日、釈尊が悟りを得て、広く衆生を救えるのも、提婆達多という「善知識」によるのである、と。また、その過去の因縁によって、提婆達多に対して未来無量劫の後に天王如来になる、という授記が与えられます。 斉藤: 今日の釈尊にとっては、提婆達多は「悪知識」です。提婆は、釈尊を殺そうとしたり、破和合僧、つまり正法の教団を分裂させたり、女性門下(蓮華色比丘尼)を殴り殺したりしました。その大悪人が過去世では、「善知識」であったというのです。ここでは善悪が全く逆転しています。それどころか、不思議なことに、提婆達多が過去世においては、釈尊の師匠であったと説かれていきます。これも悪人が仏の師匠であったというのですから、常識では考えられないことです。 須田: そこで手がかりになると思われるのは、提婆品で、釈尊が成仏したのは「皆提婆達多が善知識に因るが故なり」(法華経 p424)と説かれていることです。提婆達多がいなければ、釈尊も仏にはなれなかったと。 天台大師も『法華玄義』で「悪によって善あり、悪を離れて善なし」(巻五)、また「悪は是れ善の資(善を助けるもの)なり。悪なければ、また善もなし」と述べています。 名誉会長: そこだね。善と悪とは「実体」ではない。どこまでも「関係」の概念です。 ゆえに、一人の人間がはじめから善人であるとか、悪人であるとか決めることはできない。牧口先生は、「善人でも大善に反対すれば直ちに大悪に陥り、悪人でも大悪に反対すれば忽に大善になる」と言われていた。 また、わかりやすく例えて次のようにも言われている。「顔回がもしも孔子に反対したとすれば、亜聖が直ちに大悪人に陥らなければならず、この孔子がもしも釈尊に反対したとすれば、直ちに極悪の果報を結ばなければなるまい」と。 遠藤: 顔回とは孔子の弟子で、亜聖、つまり孔子に次ぐ聖人と言われていました。その顔回が孔子に背くのは、中善が大善に背き、一転して大悪になる。その孔子も極善の仏に背けば極悪になる。なるほど、善悪は関係性ですね。 名誉会長: しかし、孔子やイエス・キリストやマホメットが、もし釈尊にあったら背くことはないだろう、とも牧口先生は言われていた。なぜならば「彼らはただ等しく自己を空しうして、衆生を救済しようとするに余念がないからであって、エゴイストではないからである」と。 牧口先生は、衆生の救済に究極の善を見ておられたようだ。反対に、自分の利害だけを考えるエゴイズムは悪の根源です。だから、こうも言われています。 「一般に善人、大善人と自任している人々にとって油断のならないことは、いつ自分以上の人格者が出現しないとも限らず、現在以上の良法が立証されぬとも限らないことである。この場合には、地位が高ければ高いほど、直ちに大悪・最大悪の果報を結ばなければならない」 「かの良観、道隆の輩も、もし日蓮大聖人が出現されなかったならば、生き仏として現世を終わったであろう。残念なことには、彼らはこの関係がわからず、私利私欲に目がくらみ、大悪僧になってしまった」と。やはり嫉妬によって悪人になってしまった。 斉藤: 牧口先生は「公益を善という」と定義されています。法華経は、万人を成仏へと導く経典です。 その意味で、法華経は最高の公益、最高の善を目指していると言えますね。 名誉会長: それが仏の心である。ゆえに仏は極善です。しかし、それは仏の生命に悪がないということではない。悪は、可能性として仏の生命にも具わっている。しかし、最高の善を目指し、悪と戦い抜いているがゆえに、仏は善なのです。 大聖人は「善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し」(御書 p563)と仰せです。善も悪も実体ではない。空であり、関係性によって生ずる。だからこそ、たえず善に向かう心が大事であり、行動が大事なのです。 Tweet