投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月27日(月)13時00分37秒     通報
斉藤: 提婆達多は、釈尊の教団の破壊も企てています。一方で、師匠を亡きものにしようとし、一方で弟子たちを切り崩そうとしたわけです。
提婆達多は、戒律に目をつけました。彼は釈尊の教団よりもさらに厳しい戒律を主張し、その点で釈尊を上回ろうとしたのです。
資料によって若干の違いはありますが、彼が主張した戒律とは次のようなものです。
一、修行者は人里から離れた林のなかに居住すべし。もし、人里に入る者は罪となる。
一、修行者は乞食行をなすべし。もし、食のもてなしを受けた者は罪となる。
一、修行者はポロ布の衣を着るべし。もし、衣の布施を受けた者は罪となる。
一、修行者は樹下に住み、屋根の下では暮らさぬこと。もし、屋根のある家に近づく者は罪となる。
一、修行者は魚、鳥獣の肉を食べてはならない。もし、これを破れば罪となる。

遠藤: 当時のインドでは修行者が禁欲に努めることを尊ぶ気風があったので、この厳格な戒律を主張すれば、人々を自分に引き付けることができると考えたのでしょう。実際に、提婆達多の言い分にたぶらかされて、五百人もの仏弟子が、彼に従ったといわれます。もっともこの人たちも、後に舎利弗と目連から諭され、釈尊のもとに戻ってきます。
提婆達多のもとに留まった者たちは、提婆を中心にして、独自で教団を作りました。提婆達多を覚者として崇拝する教団は、その後、1000年ほどインド社会に存続した、ともいわれます。

須田: たしかに、こうした厳しい戒律は聞こえがいいですね。いかにも高潔であってむしろ釈尊のほうが堕落しているかのように聞こえます。

名誉会長: 事実、それがねらいだったのでしょう。悪人は、絶対に「自分は悪人です」という顔はしない(笑い)。悪知恵というか、奸智です。苦行者が多かった当時、釈尊の「中道」の生き方を「堕落だ」ということは、簡単だったでしょう。
実際、釈尊は悟りを得る以前に、苦行主義の限界を見極めて、捨てています。その時、ともに修行していた五人の修行者から「堕落だ」と激しい非難を浴びている。
釈尊の教団は、厳しいなかにも、中道の大らかさがあった。そうでなければ、多くの人を包容することはできないからです。多くの人を「善の軌道」に乗せて幸福へと導くために、仏道修行があり、戒律がある。それが戒律そのものが目的となっていたずらに人を苦しめるのでは本末転倒です。あれはだめ、これはだめという外からの規制によって人々を縛るような宗教は、民衆の心をとらえることはできないでしょう。いわんや、自分の見栄や策謀で、偽善的に清貧ぶったり高潔ぶるのは、宗教利用と言わざるを得ない。要は、提婆達多は「釈尊よりも自分が尊敬されたい」と熱望した。嫉妬です。そのために考えだしたのが、さきほどの五つのような戒律だったのではないだろうか。

遠藤: そもそも発想の根本が、狂っているわけですね。

斉藤: 提婆達多は嫉妬によって身を滅ぽしたのだと思います。

名誉会長: 戸田先生はよく「提婆達多は男のヤキモチ」と言われていた。「『嫉妬』という漢字は両方とも、“女偏”だが、“男偏”の嫉妬というのもあるんだ」と(笑い)。
嫉妬のこわさは、相手のすごさを認めて自分を高めようというのではなく、相手のアラさがしをして、傷つけよう、引きずり落とそうとすることです。その結果、傷つき、落ちていくのは自分自身なのだが —- 。
「妬み深い人は、鉄が錆にむしばまれるごとく、自分の嫉妬によってむしばまれる」という言葉もある。(ギリシャの哲学者アンティステネスの言葉)

斉藤: 実際、大聖人が「日本国の男は提婆がごとく」(御書 p1556)と仰せの通りの日本になっているような気がします。嫉妬の国というか、偉大なものを尊敬できず、陰湿に足を引っ張ることが当たり前のようになっています。じつに残念なことです。

名誉会長: 提婆達多は、釈尊が皆から尊敬される姿だけを見て、釈尊の「内なる戦い」を見ようとしなかった。苦悩の人々を救うため、全人類に自分自身の生命の宝を気づかせるために、釈尊が日夜、人知れず、どれほど苦心していたか。どれほど自分自身と戦い、苦労に苦労を重ねていたか。その苦闘を彼は見ようとしなかったのです。
なぜ見えなかったのか。それは彼自身が自分との戦いをやめていたからでしょう。「内なる悪」を自覚し、その克服に努力しなければ、とたんに悪に染まってしまう。その意味で、「善人」とは「悪と戦っている人」です。外の悪と戦うことによって、自分の内なる悪を浄化している人のことです。この軌道が人間革命の軌道です。

斉藤: 内なる悪を自覚する —- ということは「一念三千」ですね。極善の仏にも、地獄界の提婆達多の極悪の生命がある、というのが、十界互具であり、一念三千ですから。

名誉会長: その通りです。その意味で、法華経の一念三千は、究極の内省の哲学です。自分は特別に尊いのだ、などという傲りをだれ人にも許さない平等の哲学です。人間尊厳の哲学です。
極善の仏にも、悪の生命が具わり、極悪の提婆にも、仏の生命が具わると見る。その上で、「悪との戦い」を続けているか否かによって、現実は、善と悪の軌道に、遠く正反対に分かれてしまう。そして、じつは、この一点に、提婆達多品を読むカギがある。結論を先に言えば、悪との「限りなき闘争」こそ、提婆品を貫く魂なのです。