投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月27日(月)07時17分22秒     通報
■ 嫉妬で身を滅ぼした提婆達多

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提婆達多品から
「未来世の中に、若し、善男子、善女人有って、妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信敬して、疑惑を生ぜざらん者は、地獄、餓鬼、畜生に堕ちずして、十方の仏の前に生ぜん。所生の処には、常に此の経を聞かん。若し人天の中に生ずれば、勝妙の楽を受け、若し仏の前に在らば、蓮華より化生せん」(法華経 p426)

未来の世において、もしも善男子・善女人で法華経の提婆達多品を聞いて純真に信仰し、疑惑を持たない人がいれば、その人は地獄、餓鬼、畜生に堕ちることはなく、十方の世界の仏の前に生まれるであろう。そして、生まれた場所で常にこの法華経を聞くであろう。もし人界・天界の中に生まれたならば、大きな楽しみの境涯を受け、もし仏の前にいるならば、その人は蓮華の中から生まれるであろう。
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斉藤: はい。実際に提婆達多とはどういう人物だったのか、ということから入りたいと思います。
この点については、池田先生が小説『新・人間革命』の「仏陀」の章で詳しく描いておられますので、ここでは概略にとどめたいと思います。

須田: 提婆達多については多くの伝承があり、生まれについても、釈尊の異母弟とするものや、従兄弟であるとするものなどがありますが、どちらかといえば従兄弟という伝承が多いようです。いずれにしても提婆達多は釈尊より若く、釈尊の成道15年ごろに出家したと考えられています。
初めは釈尊の弟子として真面目に修行に励み、才能もあったので、教団の中で次第に注目される存在になりました。しかし、後になると、後ろ盾を求めて阿闍世王に近づき、「釈尊に代わって教団全体を統率しよう」との野心を懐くようになったと、伝えられています。

遠藤: 御書に「八万宝蔵を胸に浮べ」(御書 p1348)ともあるように、秀才だったようですが、かえって、そのために慢心したのかもしれません。

名誉会長: 知識は善人を一層善人にし、悪人を一層悪くするものです。
彼の奥底の一念が、「信仰者」の一念ではなく、「野心家」の一念だったのではないだろうか。「信仰者」とは、「自分を支配しよう」とする人間です。「野心家」あるいは「権力者」とは、「他人を支配しよう」とする人間です。
「信仰者」は、自分が動き、自分が苦労し、自分と戦う人間です。「権力者」は、人を動かし、人に苦労をさせ、自分を見つめない人間です。提婆達多は、慢心のためか、自分で自分を見つめられなくなってしまった。結局、信仰者としての軌道を踏み外してしまったのです。

須田: 晩年の釈尊に対し、提婆達多は教団の統率を自分に譲るように求めました。挙げた理由は釈尊の老齢です。
釈尊が拒否しても、彼は三回も同じ要求を繰り返した、といいます。これらについては、多くの文献が一致しているので、ほぼ歴史的事実とされています。

名誉会長: どんなにもっともらしいことをいっても、結局、提婆達多にとって宗教も自分の野心のための手段だった。この時の言動によって、提婆達多の醜い一念は、はっきりする。

斉藤: このとき、釈尊から「人の唾を食う者」(阿闍世王にとりいってその庇護を受けていたことを指す)と面罵された提婆達多は、反逆の心を固め、教団から去っていきます。そこですごいと思うのは、釈尊が直ちに、提婆達多が今や悪心を懐いていることを、いち早く皆に伝えるよう弟子たちに命じていることです。

名誉会長: 提婆達多にたぶらかされる人を一人も出してはならない、という責任感です。悪人は明確に悪人である、と示していかなければならない。中途半端な対応では、皆が迷ってしまう。また、戦いにはスピードが大事だ。優柔不断で決断しないのでは、その間に魔に食い破られてしまう。
また、なぜ大勢の人間の前で叱ったかというと、そうしなければ皆がわからないからではないだろうか。提婆達多は、「皆の前で恥をかかされた」と思ったとされているが、そう感じること自体、もはや謙虚な「弟子」の心がなくなっていたことを示している。ちっぽけな自尊心のほうが、求道心よりも上回ってしまっていた。
あるいは、釈尊が彼に、その前から、だれもいない所で注意を与えていたのかもしれない。それでも変わらなかったので、皆のいる所で叱ったのかもしれません。

須田: 釈尊に敵対する心を固めた提婆達多は、その後、阿闍世王をそそのかし、父の頻婆娑羅王を殺害させて王位に就かせます。もっとも頻婆娑羅王のほうから、王位を阿闍世王に譲ったとの説もありますが。そして、阿闍世王の権力を使って刺客を放ったり、悪象をけしかけたり、最後は自ら大石を釈尊めがけて落とすなど、仏を亡きものにしようと、ありとあらゆる策謀を図りました。しかしそれらの企ては、全て失敗してしまいます。

名誉会長: 仏の境涯は、どんな権力も策謀も侵すことはできない。そのことを提婆達多が雄弁に証明してくれたわけです。大聖人の場合も同じであった。鎌倉幕府の強大な権力をもってしても結局、大聖人一人を倒すことはできなかった。