投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月26日(日)12時10分7秒     通報
斉藤: お話をうかがって思い出すのは、有名なカントの「尊厳」の定義です。カントによれば、人間は「尊厳」である。それは「人間は、けっして、目的のための手段にされてはならない」ということだと。(取意、『道徳形而上学の基礎づけ』)

遠藤: カントといえば、もうひとつ思い出すのが「考えれば考えるほど、ますます感嘆と崇敬で心を満たすものが二つある。それは、わが上なる星々の輝く空と、わが内なる道徳律である」という言葉です。(取意、『実践理性批判』)
「宇宙」と「内なる法」ですね。これが不二であるというのが仏法です。ゲーテの“内がそのまま外なのだ”に通じます。しかも、これがともに「慈悲の法」であるというのですね。すべてを「結合」させる力というか —- 。

名誉会長: 冒頭、話の出たカズンズ博士も「わたしは宇宙の秩序と道徳の秩序とのあいだに区別を認めない」(松田銑訳、前掲書)と言われています。
「わたしはこの宇宙の秩序を包含したり、命令したりはできないが、この秩序に同化できる。なぜならわたしはその一部であるからだ」(同)とも。カズンズ博士は、お会いしてすぐ、「この人は菩薩だ」と直感しました。偉大な方でした。

須田: “原爆乙女”の治療に奔走されたり、ナチスの“実験モルモット”にされたポーランドの女性たちの心身を癒すために尽力されたことは有名です。

名誉会長: 本当に「権力の魔性」は残酷だ。その反対が「一人の人を、かけがえのない存在として愛する」ということです。そのために尽くし、そのために苦しむ。そのことを自分の喜びとする生き方です。
ナチスの強制収容所からの“生還者”である有名な心理学者フランクル博士(『夜と霧』の著者)は、講演でこんな話を紹介しています。あるお母さんの手紙の一節です。
「私の子供は、胎内で頭蓋骨が早期に癒着したために不治の病にかかったまま、1929年6月6日に生まれました。私は当時十八歳でした。私は子供を神さまのように崇め、かぎりなく愛しました。母と私は、このかわいそうなおちびちゃんを助けるために、あらゆることをしました。が、むだでした。子供は歩くことも話すこともできませんでした。でも私は若かったし、希望を捨てませんでした。私は昼も夜も働きました。ひたすら、かわいい娘に栄養食品や薬を買ってやるためでした。そして、娘の小さなやせた手を私の首に回してやって、『お母さんのこと好き? ちびちゃん』ときくと、娘は私にしっかり抱きついてほほえみ、小さな手で不器用に私の顔をなでるのでした。そんなとき私はしあわせでした。どんなにつらいことがあっても、かぎりなくしあわせだったのです」(V・E・フランクル著『それでも人生にイエスと言う』、山田邦男・松田美佳訳、春秋社)。
これが「人間を手段化する」権力の魔性と対極の姿でしょう。

斉藤: 宝塔品の深い意味が少しわかってきたように思います。

名誉会長: 権力の魔性を、もっと身近なことで言えば、リーダーが「人に苦労を押しつける」というのもその一つです。自分が楽をして、いやなこと、大変なことは人にやらせる。「責任」も人に押しつけ、自分は甘い汁だけを吸おうとする —- 。
こんな言葉があります。「どんな国にも大変なことはある。もし、あなたが大統領であれば、大変なことは君自身にふりかかってくる。しかし、もしも、あなたが独裁者ならば、あなたはこの大変なことを他の人々にふりかかるようにできる」(ドン・マーキス著『アーチとメヒダブル』)
「指導者」と「独裁者」は違う。指導者というのは、自分が皆のために苦しんでいく人なのです。
大聖人は「元品の無明」は「第六天の魔王」と顕れ、「元品の法性」は「梵天・帝釈等」と顕れると言われている(御書 p997)。
魔王は独裁者。梵天・帝釈は指導者です。両者の違いは決定的です。「天地雲泥」と言える。一方、一念の世界においては、「紙一重」とも言えるのです。

斉藤: 私たち皆が、気をつけていかなければなりませんね。
こうしてみますと、冒頭、話していただいた「人間の無力感」も、現代社会が人間を「機能」だけで見たり、「手段」としてしか見ないことが大きな要因だと思われます。

遠藤: 子どもも、ただ「成績」だけを基準に「序列化」されることは、たまらないでしょうね。かけがえのない存在として受けとめてくれる場所が本来は家庭のはずなのですが、家庭までが、成績という「部分」をもって、子どもの「全体」を測ろうとする傾向がある。これでは子どもが本当の意味での自信 —- 「何があっても自分は自分だ」という強さをもてなくなってくるのも当然かもしれません。

名誉会長: そう。生命に序列はつけられない。だからこそ「尊厳」なのです。
子どもにも大人にも「無力感を感じさせない」ための教育を与えていく。心の滋養を与えていく。そして連帯していく。これが現代の根本的要請です。
その意味で、万人に向かって、「あなたこそ宝の塔なのです」「かぎりない力を秘めているのです」と呼びかける宝塔品は、豊かな示唆を与えてくれているのではないだろうか。
あらゆる「権力の魔性」と戦い続けることこそが「法華経を持つ」ことであり、その人間愛の苦闘によってこそ、我が身が、真に「宝塔」と輝くのです。我が生活が、永遠を呼吸する「虚空会」に連なるのです。瞬間瞬間が、生きる歓びのエネルギーに彩られてくるのです。