投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月26日(日)09時04分33秒     通報
須田: また「九易」の教理的事例も、法華経以外の経典では「元品の無明」を克服しないゆえに「易しい」のですね。

名誉会長: ただ注意しなければならないのは、法華経は「無明法性一体」と説くことです。くわしくは別の機会に論じることにしたい。
魔王にも「体の魔王」と「用(働き)の魔王」があると大聖人は言われている(御書 p843)。体の魔王とは「無明法性一体」としての本有の魔王です。用の魔王とは、そこから派生する“働き”としての「第六天の魔王」です。無明法性一体ですから、最後は、魔王さえも仏法を護るのです。法華経に「魔及び魔民でも仏法を護る」(授記品)とあるのは、このことです。ただ今回は、この「用の魔王」を中心に学んでいるわけです。

斉藤: そこで、この「権力の魔性」ですが、これだけでも何回も論じなければならないテーマです。

名誉会長: その通りです。「権力悪」とは何か —- これは二十一世紀を考える上でも根本的問題です。なぜか。二十世紀とは、この「権力悪」がある意味で極限にまで肥大化した時代だからです。その代表が「ファシズム」であり「スターリニズム」です。

遠藤: 右と左の両翼という対極の立場でありながら、ともに恐怖の全体主義社会を出現させた点では共通しています。

名誉会長: 全体主義にとっては、一切が権力者の「手段」となる。人間はそこでは「道具」にすぎない。「モノ」にすぎない。「数字」にすぎない。いな「無」にすぎない。それはナチスによる「ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)」、またナチスが劣等者とレッテルを貼った心身の障害者への迫害を、少しでも見れば明らかです。
それは余りにも残酷であるゆえに、安易に口にしたくはない。そこでは「人間」が、権力者たちが勝手に決めた基準によって「役に立つ」とか立たないとか選別されたのです。そして虐殺です。

須田: 日本軍のアジア侵略でも、狂気としかいいようのない「人間のモノ化」が行われました。

遠藤: 「権力の魔性」はいつの時代にも存在していたわけですが、二十世紀においては、それが巨大化し、組織化されたわけですね。

名誉会長: イデオロギーで「正当化」されもした。その上に、科学技術の進歩が、悲劇を拡大した。原爆、(ナチスの強制収容所の)ガス室などがその象徴ですが、人間の虐待を大規模に、また徹底的に行える力を人間は手にしてしまったのです。
また科学技術そのものの本性として「一切を数量化する」傾向がある。“魂なき科学技術”は「人間のモノ化」に拍車をかけます。「原爆」は「権力の魔性」の象徴です。「魔王」が形になったようなものです。「魔」とは「奪命者(命を奪う者)」という意味なのです。その反対が「仏」です。「命を蘇生させる者」です。

斉藤: 「核兵器を使った者は魔ものであり、サタンである」との戸田先生の原水爆禁止宣言は、そういう生命の洞察に裏づけられていたわけですね。

名誉会長: 戸田先生は、全生命で宇宙に瀰漫する魔と戦っておられたのです。戦いは壮絶でした。その苦痛、その緊張感は、だれにもわからないでしょう。普通なら、病気になるか、死ぬか、自殺するか、精神に異常をきたすか —- それくらい、生命への猛烈な圧迫があるのです。
原爆は「無明」が形になったものと言いましたが、それは「人間不信」と「人間憎悪」が形になったものとも言える。哲学者のマックス・ピカート博士でしたか、原爆は「分裂する世界」の象徴と論じていました。
(「もろもろの原子を結合して原子世界を成立せしめていた力が、いまや一つの世界を爆破し粉砕するために利用されるのである。原子爆弾が、今日、この時代に —- 万事を分裂することによって生き、且つそのために死につつあるこの時代に —- 発明されたのは、決して偶然ではない」(『われわれ自身のなかのヒトラー』、佐野利勝訳、みすず書房))
「権力の魔性」は「分裂」させます。人と宇宙、人と人、国と国、人と自然を「分断」させます。
反対に、「慈悲」はそれらを「結合」させます。そして宇宙そのものに「結合させる慈悲」がある。
宇宙そのものが本来は慈悲なのです。その意味で、宇宙は仏と魔との戦いの舞台です。「権力の魔性」と「慈悲」との戦いです。「生命を手段にする」欲望と、「生命を目的とする」慈愛との闘争です。人間を砂粒化し、「無」化していく力と、人間を宝塔化する力との、せめぎ合いなのです。