投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月25日(土)17時03分48秒     通報
斉藤: 等覚といえば「妙覚」すなわち「仏の悟り」と等しい悟りを得たとされる最高位の菩薩です。その等覚の菩薩でさえ「元品の無明」を克服できないと。いいかえれば、「元品の無明」を克服したかどうかが「成仏」のポイントになるわけです。

遠藤: どちらの御文も「元品の無明」が「第六天の魔王」と顕れて法華経の行者の障害となるという意味ですね。
「第六天」とは、三界のうち欲界の第六番目の天、すなわち「他化自在天」です。他を自在に動かして喜ぶ天とでもいいましょうか。いわゆる「権力の魔性」と考えられます。

名誉会長: 「他化自在天」とは、こうも考えられないだろうか。「自分以外のすべてを、自分の手段として利用しようという生命の根本的傾向性」と。
これは生命が生きていこうとする限り、ある意味で自然な欲求といえます。反対に「自分を周囲のために捧げよう」とすることは、極めて難しい。慈悲、人間愛、奉仕。これらは、素晴らしいことであるが、実践は極めて困難です。
宇宙と自分は一体不二である。そう頭ではわかっても、生命の根底ではわからない。これが「元品の無明」とも言えよう。この無明のために、宇宙を自分のために奉仕させ、手段にしようとする。それが「他化自在天」であり「第六天の魔王」であり「権力の魔性」です。
法華経では、自己即宇宙と説く。その具体的実践は慈悲であり、相手を「宝塔」として尊敬し、礼拝し、難に耐えながら、自他不二で幸福になっていくことです。その実践には、必ず自身の「元品の無明」との戦いがある。そして他の人々の「元品の無明」をも刺激し、激発するゆえに、難があるのです。
「権力の魔性」とは権力者だけにあるのではない。「智者の身に入つて」と仰せのように、世間から尊敬されている精神的指導者が「権力の魔性」をふるう場合もある。

斉藤: 「僭聖増上慢」ですね。(第十三章・勧持品に説かれる「三類の強敵」の第三)

名誉会長: 大難は大抵、この両者(悪の権力者と悪の精神的指導者)が結託して起こるのです。これは過去も現在も未来も同じです。

遠藤: そう見てきますと、三変土田で「娑婆即寂光」とするために、最後に「無明惑」と戦わなければならなかった—そのことと、きちっと一致してきます。

斉藤: 天台の説いた「三障四魔」も、本来は、自身の内観を進めていく過程で生命の深層から出てくる障魔のことですね。一念三千すなわち自身の一念が宇宙と一体であることを体得するためには、それら内なる七つの障魔(三障四魔)と戦わなければならない。それが大聖人の仏法では、主に妙法を行ずる過程で外から襲いかかってくる障魔というように、ダイナミックなとらえ方になっています。

須田: 「元品の無明」との戦い、「権力の魔性」との戦いに勝つことが、「法華経を持つ」ということであるならば、たしかにこれは「難事」です。

名誉会長: そう。「九易」の「物理的」事例も、「教理的」事例も、これに比べれば、難事ではない。

遠藤: 物理的事例は、不可能に見えますが、あくまで外面的なことです。事実、科学技術の発達が、その一部は可能にしつつあるかもしれません。

名誉会長: ともかくポイントは「外面世界を動かす」よりも「内面世界を変える」ほうが難しいということです。このことを「六難九易」は教えているとも言える。