投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月25日(土)12時36分15秒     通報
■ 「元品の無明」の克服こそ難事

名誉会長: 法華経の「六難九易」に照らせば、それがどれほど大変なことであるかがわかるのです。権力にもよらず、権威にもよらず、財力にもよらず、民衆が民衆の力で、民衆のために、民衆を幸福にする大法を、世界百二十八ヵ国に弘めてきたのです。日蓮大聖人がたたえてくださっているでしょう。釈迦・多宝、十方の諸仏が喝采を送っていることでしょう。

須田: 難事であるゆえに、釈尊も成道の直後には、法を説くことをためらいました。大聖人も立宗の前に迷われたと言われています。 —- 不幸の根源がどこにあるかを一言でも言えば、自分はもちろん、父母、兄弟、師匠にまで国主からの王難が襲ってくることは疑いがない。しかし、もし言わなければ無慈悲になってしまう —- 。
言うべきか言わざるべきか、と悩まれた。法華経や涅槃経等の経文に照らして考えるならば、もし本当のことを言わなければ、今世は何もなくても後生は必ず無間地獄に堕ちる。言えば三障四魔が必ず競い起こるであろう —- そう考えられたうえで、立宗を決断された。そして、もし王難が起こった時に退転するぐらいならば、はじめから言わないほうがよいと考えられた。そのとき思い起こされたのが「宝塔品の六難九易」であると言われています。

遠藤: 六難九易を思い起こされて、大聖人は「今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじ」(御書 p200)との誓願を立てられたのですね。そこで問題は、なぜ法華経を弘めれば難が起こるのかということです。

須田: まず法華経が「折伏の経」であり、「随自意の経」であることが挙げられます。「仏の心」そのままを、相手に妥協せず、まっすぐに主張する。その意味では、反発が起こるのは当然だと思います。

斉藤: たしかに「良薬は口に苦し」です。真実を言うことがかえって反発を招くのは、歴史上、無数に例があります。ガリレオなどの科学者も含めて、多くの先覚者が命に及ぶ迫害を受けてきました。

遠藤: 権力というのは、自分たちの安住している世界像が崩されようとする時は、たとえ真理であってもそれを否定し、猛烈に反撃してきますね。

須田: 裁判で負けても、「それでも地球は回っている」とつぶやいたという伝説は有名ですが、ガリレオの場合、彼の主張をつぶそうとしたのは、教会の権力とともに、当時の社会をイデオロギー的に担っていた伝統的なスコラ哲学者でした。

名誉会長: イデオロギーというと難しくなるけど、どんな社会であれ、またいかなる時代であれ、そこには必ず人々の意識を支えている世界観なり、価値観がある。それと抵触するものが現れると、反動が起きるというのは古今東西変わることがない。

須田: デカルトもそうですね。彼が『世界論』を著しながら、そこにコペルニクス説が含まれているため、ガリレオと同じように処罰されることを恐れて、公表しなかった。

名誉会長: それが普通です。誰だって自分の命が惜しい。しかし、法華経は、この大法を教えないと、人類が根本的に「闇」になってしまう。だから、大聖人は決断された。我が身を惜しまないのが「法華経の行者」なのです。
しかし、これだけでは、まだ十分に「六難」の難事たるゆえんを説明したことにはならない。なぜなら法華経以外の教説でも難はあるからです。そこで、先ほど言った「元品の無明」との対決ということが焦点になってくる。
法華経とは「生命変革の法」であり、煎じつめれば「元品の無明」を克服するための大法です。「元品の無明」とは、生命にもともと具わる「根本的な迷い」です。
これには、いろいろな観点があるが、日蓮大聖人は「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(御書p997)と仰せです。
また「兄弟抄」にも「第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぽらかすなり(中略)設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入つて法華経と申す妙覚の功徳を障へ候なり、何に況んや其の已下の人人にをいてをや」(御書 p1082)と言われている