投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月25日(土)07時34分1秒     通報
須田: はい。第二回は、多宝如来および分身の諸仏が集まってきたのは「令法久住(法をして久しく住せしむ)」のためであるということを明かして、呼びかけています。
三回目が、「六難九易」を説き、滅後弘通が至難であることを明らかにしたうえでの呼びかけです。

名誉会長: こうしてみると虚空会が「滅後のため」であることが、はっきりとするね。
釈迦・多宝が、十方の諸仏が、こぞって「未来に正法を弘めよ」と勧めているのです。そのための壮大な舞台設定なのです。

遠藤: 「六難九易」の「九易」とは、次のようになります。
(1)法華経以外の諸々の経典を説くこと (2)須弥山をとって他方の無数の仏土に投げ置くこと (3)足の指でこの三千大千世界を動かし、遠く他国に投げること (4)この世界の頂点である有頂天に立って、法華経以外の無量の経典を説くこと (5)手で虚空をつかんで自在に動くこと (6)大地を足の甲に置いて天に昇ること (7)乾いた草を背負って大火に入っても焼けないこと (8)無数の法門を説いて人々に神通力を得させること (9)多くの人々に小乗の最高の悟りである阿羅漢の位を得させること。

須田: 一体、どこが「易しい」のか、「九難」の間違いじゃないのか(笑い)と思ってしまいますね。

斉藤: 九をあえて大別すれば、「物理的なこと」と「教理的なこと」の二つになると思われます。(2)(3)(5)(6)(7)が物理的なことです。(1)(4)(8)(9)は主に教理的なことですね。これらが、すべて「六つの難しいこと」と比べれば「易しい」とされています。

名誉会長: それはもちろん「六難」の大変さを強調するためでしょう。しかし決して、主観的で大げさに誇張された表現とは言い切れない。そこには深い意味があると思う。

遠藤: はい。「六難」の内容を確認しますと次のようになります。
(1)仏の滅後に、悪世で法華経を説くこと (2)仏の滅後に、法華経を書き、あるいは人にも書かせること (3)仏の滅後に、悪世で、しばらくの間でも法華経を読むこと (4)仏の滅後に、一人のためにでも法華経を説くこと (5)仏の滅後に、法華経を聴き、その意味を問うこと (6)仏の滅後に、能く法華経を受持すること。
要するに、「悪世において」「法華経を自行化他にわたって修行する」ことは極めて難しいというのです。

名誉会長: それはなぜなのか。
末法の法華経が、南無妙法蓮華経の大白法であるということもあるでしょう。法を弘める資格の問題もあるでしょう。
地涌の菩薩にあらずんば行じ難き妙法ですから。その上で、やはり、法華経を行ずれば必ず「大難」がある。そこがポイントでしょう。
大聖人は、「御義口伝」で、宝塔品の「此経難持(この経は持ち難し)」の文について、こう仰せです。「此の法華経を持つ者は難に遇わんと心得て持つなり」(御書 p742)と。

斉藤: この「法華経」は「末法の法華経」である南無妙法蓮華経の御本尊であり、「持つ」とは、妙法の広宣流布に生き抜いていくことですね。

遠藤: 難を耐え抜いて、妙法弘通を貫いてこそ「法華経を持つ」ということになります。宗門のように、弘教もせず、難を避け、経文を読んでいるだけでは「法華経を持つ」ことになりません。

須田: その読経でさえ、さぽりがちだそうですよ(爆笑)。

斉藤: その意味では、殉教の牧口先生はじめ創価学会こそ、近代において「法華経を持つ」難事を実践してきたといえますね。

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見宝塔品から
「諸余の経典 数恒沙の如し 此等を説くと雖も 未だ難しと為すに足らず 若し須弥を接って 他方の無数の仏土に擲げ置かんも 亦未だ難しと為ず 若し足の指を以って 大千界を動かし 遠く他国に擲んも 亦未だ難しと為ず 若し有頂に立って 衆の為に 無量の余経を演説せんも 亦未だ難しと為ず 若し仏の滅後に 悪世の中に於いて 能く此の経を説かん 是れ則ち難しとす」(法華経 p415)

法華経以外の諸経典は、ガンジス川の砂の数ほどに多い。これらを説いても、まだ難事とはいえない。もし須弥山を手にとって、よその無数の国土に投げ置こうとも、いまだ難事とはいえない。もし足の指で世界を動かし、遠く他土に投げかけようとも、いまだ難事とはいえない。もし世界の頂点に立って、法華経以外の無量の経典を演説しようとも、いまだ難事とはいえない。もし仏の滅後、悪世の中において、よくこの経(法華経)を説くならば、これこそ難事である。
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