投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月24日(金)17時12分34秒     通報
■ 「宝塔」の林立が仏国土

斉藤: 第二の変浄は、三惑のうちの塵沙惑を浄化することを表しています。塵沙惑は菩薩の無数の迷いですから、私たちが人々の幸福のために戦うところに起きる無数の悩みと言えるかと思います。

名誉会長: そうだね。これは学会員が等しく感じているところでしょう。信仰するまでは、自分の悩みをどう乗り越えるか、それだけで奮闘していた。
ところが、今度はだんだんと人のために悩むようになってくる。たとえば、病で苦しむ同志をどう励ませばいいか —- 崇高な悩みです。

遠藤: 時には、犬も食わない夫婦喧嘩に立ち会って悩むこともあります(笑い)。

名誉会長: 友のために悩み、友の幸せのために祈る。学会員にとっては当たり前のことが、どれほど尊いことか。悩める人々のために、厭うことなく娑婆世界の現実に飛び込んでいるのです。経文には、第二、第三の変浄では、八方のそれぞれ二百万億那由佗の国々を清浄にしたとあるね。広宣流布が広がっていく姿です。
学会員の一人一人が、もっとも苦しんでいる人々のために、あえて労苦を引き受け、ありとあらゆるところに「寂光の都」を建設している姿をほうふつさせます。苦悩のどん底にあった友が同志の励ましで立ち上がり、妙法による「蘇生のドラマ」を演じていく。それ自体が、苦しみに満ちた「穢土」から、歓喜に満ちた「浄土」への見事な変革です。

斉藤: そうした一人一人の人間革命が、根本的に、一国の変革をなしていくのですね。

名誉会長: 言葉で言ってしまうと、静的のように思われるけど、そこには一人一人の現実との格闘があるわけだから、三変土田は極めてダイナミックな原理です。
「娑婆世界を浄化した」とあるように、どこか別の世界に浄土があるのではない。あくまでも「娑婆即寂光」なのです。
要するに、仏国土とは、人間の「宝塔」を打ち立てることです。皆が「宝の塔」と輝くことです。その「宝塔」の林立が仏国土をつくるのです。

遠藤: 最後の変浄は、無明惑を除くことを表すとされています。

名誉会長: 無明惑とは、文字通り、自分の生命に暗いということです。それが迷いの根本です。自分の生命に暗いということは、他人の生命にも暗いということになる。
わかりやすく言えば、あらゆる人間、あらゆる生命を、尊厳なる「宝塔」として見る。その「開かれた心」が法性です。それができない「閉じた心」が無明です。
さあ、問題はここです。「無明」と「法性」については、今後も、さまざまな観点から論じることになると思うが、今回は宝塔品に即して、「六難九易」との関係を考えてみたい。
結論から言えば、法華経を弘通することは「元品の無明」との戦いであり、それゆえに何よりも「難しい」のです。また、それは「第六天の魔王」との戦いでもあるゆえに、「難」が起きるのです。

須田: まず六難九易とは、文字通り「六つの難しいこと」と「九つの易しいこと」です。この比較を通して、仏の滅後の妙法弘通がどんなに困難であるかを示しています。

斉藤: 大聖人も御書で、この六難九易の経文を随所に引かれ、ご自身の身にあたる文とされています。

名誉会長: 特に「開目抄」では「法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし」(御書p223)とまで言われている。「大海の主」には、あらゆる「河神」が従うように、また「須弥山の王」には、あらゆる「山神」が従うように、六難九易を身で読みきった大聖人には、一切経の仏菩薩が従い、一切経をことごとく掌中におさめたことになるという意味でしょう。
法華経は「諸経の王」です。その実践の肝心要が「六難九易」となる。これを身読した人自身が「王者」となるのです。

斉藤: それでは法華経の流れのなかで「六難九易」を見ておきたいと思います。
三変土田が終わって、諸仏が“集合完了”しました。そこで釈尊と多宝仏の二仏が宝塔の中に並んで座り、会座の衆生がすべて虚空に引き上げられます。これで舞台が整いました。いよいよ虚空会の儀式の始まりです。
釈尊の第一声は「誰がこの娑婆世界で広く妙法蓮華経を説くのか。私はまもなく入滅するので、この妙法蓮華経のバトンを渡したい」という呼びかけです。

遠藤: この第一声を含めて、宝塔品では三回にわたり、釈尊が菩薩たちに呼びかけ、「滅後の弘通」を勧めています。

名誉会長: 大聖人は「開目抄」で、それを「三箇の鳳詔」と呼ばれている。