投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月24日(金)11時56分8秒     通報
■ 病める人間生命を「健康」に

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見宝塔品から
「釈迦牟尼仏、諸仏の当に、来り坐したもうべきが為の故に、復八方に於いて、各二百万億那由佗の国を変じて、皆清浄ならしめたもう。地獄、餓鬼、畜生、及び阿修羅有ること無し。又諸の天人を移して他土に置く。(中略)通じて一仏国土と為って、宝地平正なり」(法華経 p406)

釈迦牟尼仏は、仏たちが集まってきて座れるように、東西南北と東南・西南・東北・西北の八方向それぞれに、二百万億那由佗という無数の国を清めた。そこには地獄・餓鬼・畜生・阿修羅の衆生もなく、多くの天・人の衆生は他の国土に移された。(中略)通じて一つの仏国土となり、宝の大地は平らである。
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斉藤: そう言えば、小説『人間革命』第五巻の「戦争と講和」の章で、身近な譬えを通して、三変土田の原理が示されていました。
—- 昔、近しい親戚同士で、隣り合って住んできた二軒の家があった。これを斉藤家と遠藤家としましょうか(笑い)。ところが、先代同士が喧嘩して、長い間、絶交状態になっていた。そうしている間に、遠藤家は、千里の向こうに新しい親戚 —- 須田家とします —- ができて、親しく付き合うようになった。
斉藤家と遠藤家は、先代の記憶も薄くなり、お互いにそろそろ仲良くしようという気持ちはもっているものの、遠藤家は須田家に気がねをして、どうしても友好の手を差しのべることができない。斉藤家は、カンカンに腹を立ててしまっている。
ここでもし、斉藤家と遠藤家の隣同士が一切の行きがかりを捨てて、思い切って友好の手を握り合ったとしたらどうなるか。一切の環境がガラリと変わる。須田家も加えて、三軒の家が、親戚として平和な交際を始めるに至る。これこそ、三変土田の原理でもある —- 。このような趣旨でした。

遠藤: 隣同士の家とは日本と中国で、日本の遠くの友人とはアメリカですね。日本は中国と友好を結べ、という先生の主張でした。日本と中国、中国とアメリカが対立していたあの時代に、じつに新鮮な感動をもって読んだことを思い出します。

名誉会長: 国といっても、要は人間です。人間の集まりであり、人間がつくるものであり、人間が変えられないはずがない。また国家も「人間のため」にあるのです。
この素朴にして明快な事実が、さまざまな「とらわれ」から見えなくなる。独善的なイデオロギーにとらわれ、小さな利害にとらわれ、感情にとらわれ、誤った知識や先入観にとらわれ、根本的には人間と生命への無知にとらわれて、自分で自分を狭い世界に閉じこめてしまうのです。その「とらわれ」の鎖を断ち切れば、相手を「人間として」尊敬できるようになる。そこから「人間として」の対話が始まります。

斉藤: 先生が冷戦のさなかにソ連を訪問されたときも、多くの批判がありました。しかし「私は行く。そこに人間がいるから」と言われ、友好の橋を厳然と築かれた。
中国とソ連の対立も、そのころは“永遠に続く”かに思われていました。事実、中国の人からもソ連訪問を批判されたと、うかがっています。しかし先生は「必ず中ソは仲良くなります」と言われ、信念を貫かれた。
その通りになりました。すごい「人間信頼」です。「不信」を「信頼」に変える。言うは易く、行動するには大変な困難があります。

名誉会長: 「力の世界」で人間主義を貫けば、必ず「難」を受けます。それが宝塔品の「六難九易」でもある。ともあれ、ローマクラブのホフライトネル会長が語っていた。「地球が病んでいるといっても、本当の問題は、人間が病んでいるということです」と。
三変土田とは、病める人間生命を「健康」にすることによって、世界を、地球を「健康」にするということです。

須田: 天台は「法華文句」で、この三度にわたる国土の浄化を「三惑」、すなわち見思惑、塵沙惑、無明惑の三つに対応させています。これら「三つの惑い」を打ち破ったのが「三変土田」です。見思惑とは見惑と思惑です。端的に言えば見惑とは間違ったものの見方、思惑とは貪・瞋・癡という三毒からくる迷いです。

遠藤: 自分の苦しみを、自分以外の他のもののせいにする。これも見惑です。すべて自分に原因があることに気がつけば、それも見惑を打ち破ったことになると思います。

斉藤: 広く見れば、偏見や上下関係で人を見下すのも、見惑と言えますね。

名誉会長: そうだね。人は往々にして意図的に作り出されたイメージをそのまま受けとってしまう。自らの心を開いて、真実を見極めようとせず、イメージに安易によりかかると、たちまち偏見に陥ってしまう。一度、偏見に陥ると、そこに執着して離れられないのが人間のつねです。これが見惑のひとつです。

須田: それこ対して、思惑は、もっと深く生命に巣くう濁りと言えるかもしれません。そのために、真実を見る眼が曇ってしまう。

名誉会長: 生命の歪みと言ってよい。相手を映す自分の心が歪んでいる。だから人をも歪めて見てしまうのです。「癡かさ」「貪り」「瞋り」 —- これらが人間関係をそこなうことは言うまでもない。国と国の関係も同じではないだろうか。
結局、見思惑のもたらすものは、偏見と憎悪でしかないのです。これでは、誰に対しても心を開いて対話することはできない。相手も、心を開くことができない。