投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 7月24日(金)17時25分37秒     通報
師弟の宝冠VOL.3より
「皆が力を合わせて、本当の仲の良い、何でも自由に言い合える学会をつくっていきたい。皆で朗らかに励まし合って、もっともっと立派な学会にしていきたい。」

何でも自由に言い合えるのが創価学会であり、人間主義の世界です。案外おばちゃん様が言われていることは、漠然と聖教新聞が心に響かなくなっているという一読者の感想だと思います。こういった新聞に対する漠然とした違和感の声は、ちらほら耳にします。決して、案外おばちゃん様だけが思っていることではなく、意外とポピュラーであるというのが私の実感するところです。

私自身も聖教新聞の一読者として感じることは、「ありきたりで面白くない」というのが正直なところです。そもそも聖教新聞にはそれほど期待はしてはおらず、一つでも二つでも信心の糧になるような内容があればラッキーくらいの感覚で読んでいます。新聞はだいたい目を通しますが、気づきを得ることができる内容は稀であり、書き手の質や、全会員向けということを考慮し、「可もなく不可もなく」という評価です。

そもそも、新聞啓蒙を推進している当事者の活動家が、それほど読んでいないのが聖教新聞の特徴ともいえます。私は現場のメンバーにどれくらい読んでいるか調査したことがありますが、本当ざっと読んでいるか読んでいないかというレベル。これでは啓蒙どころではなく、「まずは自分たちが読むところから」という呼びかけをしたこともあります。組織活動に追われている人ほど、読んでいないのが実情ではないでしょうか。

広く浅くが時代の流れなのかもしれませんが、もっとコアなものを求める学会員にとっては物足りないレベルのように思います。だからといって期待もできない。新聞には新聞の限界があり、それをネットで補うのが、新しい流れなのかもしれません。リアルと新聞で満足しているのならば、宿坊の掲示板を閲覧することもないでしょうし、埋まらない何かがあるから、これだけ閲覧する人がいるのではないかと思うのです。

心に響く、「活きた言葉」をどれだけ発信できるかが作り手の戦いでしょう。それが部数にも直結してきます。本当に心から「啓蒙したい」と思えるような新聞をつくっていただきたいと思うのです。そして、案外おばちゃん様の率直な感想こそが大事であり、間違っても「あなたの一念の問題」と片づけるようなことがあってはならないのです。これは官僚主義や、原理主義、そしてパワープレイへとつながってしまいかねないのです。幹部のありがちなパターンではありますが、21世紀では通用しません。

創価学会は指導主義ではありますが、なんでもかんでも指導すればいいというものではありません。究極的には仏法は「自身の一念次第」ではありますが、それは自覚の問題です。一念の変革を促すのが指導というものですが、指導するには条件が二つあると思います。それは、「信頼関係があること」、「本人が指導を求めていること」の二つが備わってこそ指導は成立すると考えます。往々にしてあるのは、指導を求めていないのに指導してしまうことであり、それは自己満足であり、学会のリーダーの振る舞いとは言えません。

どこまでいっても心を大切にするのが仏法であり、うらら様が「人間のための宗教」と言われているのはそのことを指すと思います。要は、人間の機微を知り、痒いところに手が届かなければならないということです。就中、女性が自由に忌憚なく自身の心の内を言える雰囲気があれば、学会は今の何倍も発展するのではないかと密かに思っている次第です。