投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月23日(木)18時58分11秒     通報
■ 究極の民主主義

遠藤: 相手を「宝」として尊敬するというのは、まさに究極の民主主義ではないでしょうか。ホイットマンは「民主主義の真髄には、結局のところ宗教的要素がある」(『民主主義の展望』、佐渡谷重信訳、講談社)と言っていますが、チャペル博士も「二十世紀に私たちが必要とするのは『宗教的になること』です」と言われていました。

須田: ホイットマンの民主主義観は、私も読んだことがあります。こう書いていますね。「民主主義は今のところ、やっと萌芽しつつある状態であり、それをもっぱら広範囲にわたって、十分に満足させるほど正当化する仕事は未来にゆだねられているように思われる。そのためには、主に民衆の中に完全な人間をたくさん作り出すことであり さらに健全で、全面的に普及するような信仰心が現れることだと思う」(佐渡谷重信訳、前掲書)。

斉藤: 先日(1996年4月26日)、ボストン二十一世紀センターでも、「民主主義と宗教」をめぐっての講演会が開かれました。
キング牧師(アメリカ公民権運動の指導者)の盟友であったハーディング博士(デンバー大学教授)が講師でした。キング氏の足跡にふれながら、「アメリカの民主主義は、いまだ未完成である。その完成のためには、宗教に根差し、民衆と同苦する指導者が不可欠である」という点を強調されたとうかがっています。

名誉会長: 「民主主義」の魂は「個人への尊敬」です。あらゆる人の生命を、平等に尊極なるものと見ることができるかいなか。すべて、この一点にかかっている。

須田: 多くの日本人は「わが国は民主主義国家だ」と思っているかもしれませんが、「民主主義は、いまだ未完成」とした130年前のホイットマンや、今のハーディング博士のほうが、はるかに真実を見抜いていると思います。

名誉会長: 民主主義は結局、生き方だからね。チェコスロバキアの祖国の父マサリク(1850~1937年)は言った。
「民主主義は、単なる国家形態ではなく、単に憲法の条文だけではありません。民主主義は人生観であり、人々と人間性と人性への信頼に基づくものです」(K・チャペッタ著、『マサリクとの対話』、石川達夫訳、成文社)。
人間を、何かの手段としてではなく、尊い「永遠の存在」として信頼する。それが民主主義だというのです。
そのように自分を信じ、人を信じる。そうすれば、「永遠なる者は永遠なる者に対して無関心ではいられず、永遠なる者は永遠なる者を悪用したり搾取したり暴力的に支配したりすることはできません」(石川達夫訳、前掲書)と。
大聖人は「宝塔即一切衆生・一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(御書 p797)と教えてくださっている。そのように見るのが「見宝塔品」です。
我が身に宝塔を見、我が友に宝塔を見る。そして「宝塔」また「宝塔」の林立で、我が地域を荘厳していくのです。地球を荘厳していくのです。
広宣流布の「宝の塔」を、我が地域に立てることです。私はこれだけやったと「永遠の金字塔」を残すことです。「我が塔は、ここに立つ」と人生を飾ることです。
釈尊は大闘争の人生を総仕上げせんとして法華経を説いた。「妙法を広宣流布させるのだ」という釈尊の行動に呼応して、宝塔が出現した。多宝如来が加勢に現れ、十方の諸仏も集結して釈尊を取り囲んだ。全部、もとは釈尊の「広布への一念」です。戦いです。
広布への行動によって、はじめて「宝塔」は建つ。観念ではない。現実との格闘であり、大難との真剣勝負です。そこに「聞・信・戒・定・進・捨・慚」の七宝で飾られた自分自身と輝くのです。
大聖人も宝塔である御本尊を、大難のさなかで、はじめて建立された。その意味で、宝塔品に、末法の妙法流布の困難を教えた「六難九易」が説かれていることは偶然ではありません。次は、このことも語っていこう。
§見宝塔品§(下)
「人間を手段にするもの」との戦い
■ 三変土田と六難九易

斉藤: 「宝塔」について考えれば考えるほど、現代人にとって根本的に大切なことを教えてくれていると感じられてなりません。それは「人間は決して、小さな、無力な存在ではない」ということを象徴的に訴えているからです。
つまり現代人は、決して今の人生と世界に満足しているわけではない。にもかかわらず、「自分一人くらいが何を、どう変えられるというのか」という無力感をもっているのではないでしょうか。その無力感、絶望感が人生と社会の深い部分に黒々と影を投げかけている —- ここに現代の根本的な問題があるのではないかと思うのです。

名誉会長: それは急所の問題です。特に、いわゆる先進国において深刻です。
アメリカでは若者の中に「どうしても自分を尊敬できない」という悩みが広がっているという。「自分を尊敬できない」苦しみから逃避するために麻薬を常用するようになることも多い。

遠藤: 自分を大切に思えない。それでは、他人を大切に思うことも難しいでしょう。

名誉会長: 自分も他人も虫ケラのように見える —- これは悲劇です。
現代社会は、あらゆるものが巨大化してしまった。その巨大な「量」と「大きさ」に押しつぶされている心のうめきが聞こえてきます。アメリカの良心と呼ばれたノーマン・カズンズ博士は、すでに60年代初めに、そのことを指摘していました。(博士と名誉会長は対談集『世界市民の対話』(毎日新聞社)を発刊している)
「アメリカ国内を旅行してみて、わたしは一種の憂欝症がはびこっているのを知った。いま人々が知りたがっているのは、自分たちの個人所得に関わる問題でもなければ、生活を楽しむためのよりよい方法を見出す問題でもない。彼らが知りたがっているのは、重大な問題に対して自分たちは何もすることができないという無力感を、いかにすれば打開できるかという点なのだ」(「無力感を打開する途」『ある編集者のオデッセイ』所収、松田銑訳、早川書房)。

須田: 特に、この時期は、核戦争の不安が、巨大に人々の上にのしかかっていたころですね。

名誉会長: それが一つの象徴だったでしょう。昔は、人々が意識する「世界」は小さな範囲だった。都市とか村々とか、そこで起こる問題には直接発言することも影響力を与えることもできた。しかし今は巨大な国家の一員となってしまった。また人類全体が一つの運命共同体になってしまった。
国と人類の行く末を心配はしても、何をどこで発言し、何をどのように行動すればよいのか、わからない。何かをやってみても、それが世界を良くすることに本当に役立ったのか、自信がもてない。これが現代人の置かれている状態です。
カズンズ博士は「現在における教育上の最大問題は、各個人に、彼らが重大事件に関わりあいをもっていることを意識させ、彼らの力がこれらの事件に対し影響力をもちうることを教えることである」(松田銑訳、前掲書)と論じています。
学校教育はもちろんですが、私たちの民衆運動も、広い社会教育です。人間に「あなたの行動が世界を変えうるのです」と教えていく運動なのです。そして、そのことに目ざめた人々の連帯を広げていく運動なのです。

斉藤: それこそ「事の一念三千」だと思います。日蓮大聖人は「心の一法より国土世間も出来する事なり」(御書 p563)と仰せです。一人の人間が国土をも変えられる、と。
そういう「一人の人間の巨大さ」を教えたのが宝塔ですね。自分自身は小宇宙であり、宇宙と一体不二の存在なのだと自覚できれば、これほどの歓喜はないでしょう。