投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月23日(木)09時23分40秒     通報
遠藤: この「証前」に対して「起後」とは、「後を起こす」ということです。釈尊は十方分身の諸仏を集めましたが、これが寿量品を説くための起点となっているということですね。つまり、無数の分身仏が集まったということ自体、釈尊の仏としての化導が久遠の昔から行われていることを示唆しているわけです。

名誉会長: 文上の解釈では、「証前」の「前」とは迹門の説法です。「起後」の「後」とは本門です。宝塔の涌出が後の本門を説き起こす起点となっている。
しかし、文底から見れば、この宝塔の涌出は、大聖人の法門を引き起こしているのです。宝塔品の説法が、大聖人が御本尊を建立される起点となっている。末法の御本尊を顕されることは「起後」にあたる。ゆえに、大聖人は御自ら顕された御本尊を宝塔と呼ばれたのです。御本尊こそ大聖人の御生命そのものにほかならない。無作三身如来の御生命です。南無妙法蓮華経の宝塔です。
釈迦・多宝の二仏が境智の二法を表すことは先に述べた通りですが、「境」としての多宝如来は三身で言えば、「法身如来」です。「智」にあたる釈迦如来は「報身如来」です。そして、境智が「冥合」して慈悲を起こすことから、これが「応身如来」で、十方分身の諸仏がこれにあたるのです。
釈迦・多宝・十方の諸仏という三仏の出現は、大聖人の御身に成就されている無作三身の御生命を表している。無作三身については、別の機会に論じることにして、ここで大事なことは、末法の一切衆生が、だれでもこの無作三身を我が身の上に実現できる道を大聖人が開かれたということです。それが御本尊の信受です。

斉藤: 「此の無作の三身をば一字を以って得たり所謂信の一字なり」(御書 p753)と仰せられているのがまさにそれですね。

名誉会長: 大聖人が「此の御本尊の宝塔の中へ入る」(御書 p1244)とおっしゃっているのも、私どもが己心の中に宝塔を打ち建てることができるということです。
依正不二ですから、我が身に宝塔を開けば、我が生きる世界も宝塔の世界であり、「宝塔の中に入る」ことになる。御本仏の世界の一員として、自在に活躍していけるということです。このちっぽけな自分という身が、七宝で荘厳され、大宇宙へと限りなく境涯が広がるのです。これほど素晴らしいことはない。
戸田先生は、獄中で法華経を読み切られ、その真髄が大聖人の御本尊にあることを悟られた。法華経の一文一句が大聖人の仰せと寸分も違わないことを知って、歓喜の涙を流されたのです。

斉藤: その模様は小説『人間革命』の第一巻に記されています。牢を出られた戸田先生は、ご自宅の御本尊を拝して、一字一字たどっていきます。そして、「たしかに、このとおりだ。まちがいない。まったく、あの時のとおりだ。彼は心につぶやきながら、獄中で体得した、不可思議な虚空会の儀式が、そのままの姿で御本尊に厳然として認められていることを知った。彼の心は歓喜にあふれ、涙は滂沱として頬をつたわっていった」と綴られています。

遠藤: 今の私たちには、その歓喜の程は想像するしかありませんが、獄中で体得したとに間違いがなかったことを、その時、いっそう確信されたのですね。

名誉会長: その戸田先生の確信があればこそ、御本尊根本の信心が学会の中に確固として築かれたのです。学会の大発展の原点です。

—- 先生は透徹した眼ですべてを見通されていた。小手先はいっさい通用しない。だから、体当たりでぶつかるしかなかった。それに必ず応えてくださる先生だった。年を経るにつれ、戸田先生のすごさを改めて実感してならない。身に染みてわかってくる。
たとえば、多くの宗教は、聖地巡礼のように、宗祖ゆかりの場所を特別の地として崇める。大聖人でいえば、流罪の地である伊豆や佐渡、法難の竜の口や小松原また活躍された鎌倉、聖誕の地・小湊、その他、身延、池上などの地があります。しかし戸田先生は、それらの地を“聖地”とするのではなく、どこまでも「御本尊根本」でいけ、と教えられた。ここに戸田先生の偉大さがある。
御本尊を強盛な信心で拝するところ、いずこであれ、そこが最高の“聖地”である。そこが虚空会であり、霊山であり、宝塔が建つところだからです。

須田: ブライアン・ウィルソン博士(国際宗教社会学会元会長)は、ある特定の地を聖地として、そこに行かなければならないとするような宗教では、世界宗教にはなりえないとも言われたそうです。

名誉会長: その通りです。「いま・ここ」で永遠なる虚空会の儀式に連なれる。我が身に、我が生活に、我が家庭に、宝塔を光らせていける。これが御本尊の素晴らしさです。どこまでも身近です。現実です。虚空会は前後の霊山会(霊鷲山での会座)と違って、「時空を超えた」世界である。歴史的な特定の時・場所ではない。だからこそ、「いつでも・どこでも」虚空会につながることができるのです。
虚空会の儀式を表した御本尊を拝することによって、私どもは、「いま」永遠なる宇宙生命と一体になり、「ここで」全宇宙を見おろす境涯を開けるのです。その意味で、日々の勤行・唱題は、宇宙飛行士が宇宙空間から地球を望むよりも、もっと壮大な「生命の旅」といえるのではないだろうか。