投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月22日(水)12時08分54秒     通報
■ 境智冥合 —- 自分らしく輝く

斉藤: 大聖人は、釈迦・多宝の二仏は「境智の二法」であり、「二仏並坐」は境智冥合を意味するとされていますが、この点はどう考えればよいでしょうか。多宝が「境」、釈迦が「智」に当たるわけですが —- 。

名誉会長: 戸田先生は、「境」は客観世界、「智」は主観世界と言われていた。
しかし、これも西洋的な二元論の意味でおっしゃったのではない。主客不二(主体・客体が根底では一体であること)が前提となっている。

須田: 大聖人は、「境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり」(御書 p1055)と仰せですね。

名誉会長: そう。戸田先生がよく言われていた。「八百屋であるということは境だ。八百屋らしく商売に励んでいるということが墳智冥合である」と。
もちろん、魚屋さんでも会社員でも何でもいいわけだが、その人には、その人のなすべき使命があり、道がある。それが「境」に当たる。その境を立派に輝かせていくのが智慧の光です。その場で「なくてはならない人」になるのが境智冥合です。
人間だけではない。桜が四季の移り変わりを感じながら、春になるといっせいに見事な花を咲かせ、人々を楽しませるというのも「境智冥合」の姿です。春の訪れを本然的に感じるのが桜の智慧と言える。

須田: 夏に咲いたら、みんなびっくりしてしまいます(笑い)。

名誉会長: 本来、だれもが「仏」である。これは「境」です。その仏界を輝かせるのは、智慧の光です。仏であることを自覚する智慧があって初めて仏と輝く。これが境地冥合です。私どもでいえば「以信代慧(信を以て慧に代う)」ですから、「信心」が「智」にあたる。自分に「仏界がある」というのは客観的真理であり「境〕です。それを事実の上で輝かせるのが「信心」です。
釈迦・多宝の如来も、煩悩に覆われた衆生が本来の仏界を輝かせている姿です。如来といっても凡夫なのです。人間なのです。大聖人は「釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり」(御書 p247)と仰せです。
また多宝が「境」であるというのは、多宝如来は法華経が説かれるところには、いつでも現れる。つまり「永遠の真理」を象徴している。その「永遠の真理」を「いま・ここで」顕現させたのが釈尊なのです。
つまり、二仏並坐=境地冥合によって、「いま・ここに」永遠なるものが顕れている。いな、「いま・ここに」しか永遠なるものは顕れないのです。あとは全部、幻です。
釈尊=「智」、は主体です。主体的な人生の大闘争の中にしか妙法の顕現はない。「我、地涌の菩薩なり、仏なり」という確信に燃えて、使命の行動をする時に、境智冥合となるのです。

斉藤: その境智冥合の姿そのものが南無妙法蓮華経なのですね。

名誉会長: そうです。「境」も妙法という境であり、「智」も妙法の智です。
大聖人が「境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり」(御書 p1055)と言われている通りです。境と智は別々にあるものではない。一体なのです。境が智を発し、智が境を照らすという関係です。たとえば、太陽を考えてみるとわかりやすかもしれない。太陽という本体は境です。その境そのものが智を発している。太陽が自ら光を放ち、自らを照らしているようなものです。

須田: 釈迦・多宝の二仏は南無妙法蓮華経の一法の「働き」なのですね。釈迦・多宝という姿によって、境智不二の南無妙法蓮華経を表しているわけです。

名誉会長: そう。大聖人は「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にて御座候へ」(御書 p1358)と仰せです。明快だね。