投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月22日(水)08時02分52秒     通報
■ 宝塔とは妙法蓮華経の五字

斉藤: はい。宝塔品では「宝塔の由来」を説いています。梵本と羅什訳を合わせて整理しますと、おおよそ次のようになります。
一、過去に、東方の宝浄世界という所で、多宝如来が「妙法蓮華の法門」を聞いて成仏した。
二、多宝如来は入滅に際して、「如来の全身」を祀るための巨大な宝塔を建立するように人々に遺言した。
三、その宝塔は、多宝如来の誓願の力によって、「妙法蓮華の法門」が説き明かされる所であるならば、どこにでも出現する。そして「妙法蓮華の法門」が説かれている時には、空中で静止している。
四、宝塔の出現の目的は、「妙法蓮華の法門」を聞くためであり、また、それが真実であることを「証明」するためである。
五、宝塔を開いて「如来の全身」を人々に示すためには、「妙法蓮華の法門」を説く仏が、彼の分身の諸仏を十方世界から集めなければならない —- 。
ここで特徴的なのは、「妙法蓮華の法門」という言葉が非常に多く出てくることです。羅什訳では「法華経」とか「此の経」と訳され、出てくる回数も少なくて目立ちませんが、梵本では明確に「妙法蓮華の法門」という表現が繰り返され、強調されています。その度合いは、法華経の中でも随一です。

名誉会長: 宝塔は、「妙法蓮華経」の五字と密接な関係がある。というよりも、大聖人が仰せのように、宝塔自体が妙法蓮華経なのです。

斉藤: とくに、「妙法蓮華の法門」が説かれる所には、どこにでも宝塔が出現するとされているのが大事ですね。宝塔と妙法蓮華経の関係を考える上で示唆的です。植物は、太陽の光や雨を縁として開花します。それに似て、法華経の説法によって、宝塔が出現します。その姿の全体に妙法蓮華経という一法の本質が現れているのではないでしょうか。

須田: たしかに、宝塔は、突如として涌出しました。まるで法華経の説法という太陽の光に照らされて、蓮華が咲きだしたようです。法華経の会座にいれば、そう感じられたのではないでしょうか。

名誉会長: 妙法蓮華経の説法によって、妙法蓮華経の宝塔が涌現する。私どもが自行化他にわたって妙法を唱えるとき、私たちの生命が宝塔となる。宝塔が出現する。唱えられる法も妙法蓮華経。唱える私たちも妙法蓮華経です。
戸田先生が、こんな話をされたことがある。
「ある僧侶になっている学者でありますが、私が、その人に向かって『いったい、法華経を説くところ、宝塔がたつと法華経にあるが、大聖人様は法華経を説かれたけれども宝搭がどこにもたたなかったが、そのわけはなんですか』と聞いたことがあります。ご本人は困った。
宝塔というのは、阿仏房が大聖人様に宝塔のことをうかがいたてまつったときに、『阿仏戻さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房』(御書 p1304)と仰せられたことがある。あなた方の体が、それ自体が宝塔なのです。その宝塔の中に、あなた方の体のなかに釈迦、多宝の二仏がおすわりになって、上行菩薩という方を呼びだした」と。

須田: 仏法を「観念」でとらえがちな学者の落とし穴ですね。宝塔も、どこか遠い所に考えている。

名誉会長: 戸田先生は、こうも言われています。「われわれの生命には仏界という大不思議の生命が冥伏している。この生命の力および状態は想像もおよばなければ、筆舌にも尽くせない。しかしこれを、われわれの生命体のうえに具現することはできる。現実にわれわれの生命それ自体も冥伏せる仏界を具現できるのだと説き示したのが、この宝塔品の儀式である。すなわち釈迦は宝塔の儀式をもって、己心の十界互具、一念三千を表しているのである」。
宝塔品の儀式は、仏界という尊厳なる生命を具体的に説こうとしているのです。
では、なぜ具体的な形で妙法蓮華経が示されなければならなかったのか。それは、ひとえに「滅後のため」です。「令法久住(法をして久しく住せしめる)」のためです。
これまで、法華経を聞いて信解すれば、必ず成仏できると説かれてきた。宝塔の出現は、その法華経の力を実証するものではないだろうか。これまで「理」として説かれてきたものが、宝塔品からは「事」として示されていくのです。「事」は本門です。宝塔品から本門の序文が始まっているのです。
多宝如来の「証明」というのも、塔の中から「よきかな、よきかな」と言って、法華経が真実であることを「言葉」で証明したことだけを言うのではないでしょう。多宝如来と宝塔の出現それ自体が、妙法蓮華経の「現証」となっている。「見宝塔」という題名は、宝塔の出現を通して「妙法蓮華経を見る」のです。いわば妙法蓮華経を「実体験」したのです。
つまり、我が身が妙法蓮華経であるということを、宝塔が教えてくれたのです。その意味から大聖人は、宝塔品を「明鏡」だと言われているね。

遠藤: はい。「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり、此の明鏡とは法華経なり別しては宝塔品なり」(御書 p763)とあります。また「我等衆生の五体五輪妙法蓮華経と浮び出でたる間宝塔品を以て鏡と習うなり」(御書 p724)と仰せです。

名誉会長: 七宝の塔 —- それは、本来の自分自身の屹立した姿です。“汝自身を知れ”というソクラテスの哲学的命題 —- その確たる答えが法華経に説かれる「宝塔」です。
大衆が虚空会に見た宝塔とは、紛れもなく自分自身であったはずです。大宇宙の中に厳然と屹立する不動の自己を、そこに見たにちがいないのです。だから「明鏡」なのです。
また、宝塔が大地から出現したというのも意味がある。大地とは九界の現実です。衆生の生命です。宝塔は、ただ単に仏界という生命を表現しているだけではない。衆生の命そのものに宝塔が打ちたてられることを示している。九界即仏界です。ゆえに宝塔は大地から涌出したのではないだろうか。