2015年7月21日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年 7月21日(火)18時08分23秒 通報 斉藤: 宝塔の形も、はっきりと説かれていません。“タテ長”だということは、わかりますが、直方体なのか、円筒なのか、円錐や角錐の形をしているのか、はたまたドーム型なのか、明確ではありません。 名誉会長: 当時のインドの人ならイメージできたのかもしれないね。むしろ大事なのは、形よりも、人々にとって「塔」が何を象徴しているかということではないだろうか。 須田: はい。インドの塔には、非常に豊かな象徴性があると言われています。 「塔」は、サンスクリット語の「ストゥーパ」の漢訳です。この音をそのまま漢字で写したのが「卒塔婆」や「塔婆」です。この言葉は、古くはヴェーダ(バラモン教の聖典)にも現れ、“天と地をつなぐ軸”や“支柱の頂”などの意味を持っていたようです。ヴェーダには宇宙全体を樹木として捉え、その頂の部分をストゥーパと呼んでいる所があります。それが宇宙全体の象徴でもあったようです。 名誉会長: そういう文化的な背景があるとすれば、インドの人々は宝塔によって宇宙的なものをイメージしたかもしれないね。 遠藤: 「塔婆」も「宝塔」も「ストゥーパ」だというのが面白いですね。日顕宗は金もうけのために、塔婆を建てろ建てろとうるさかったが、我が身に宝塔は建てようとしなかった(笑い)。 須田: また、ストゥーパの本体はドーム型のものが多いのですが、これは「卵」(アンダ)と呼ばれていました。形が似ているだけでなく、やはりヴェーダの創造神話に出てくる黄金の卵と関係があり、宇宙創造の原理の象徴であったようです。 遠藤: 古代インドの世界観で、世界の中心にあった須弥山とも関係があるようです。インドの人々は、ヒマラヤなど、美しくそびえる高峰を理想郷と見ていたようです。とくに水源であることが、大きい意味を持っていたようです。インドは干魃が多いですから。 ストゥーパの様々な部分には、理想郷としての須弥山を象徴するものが多いそうです。また、仏典には、ストゥーパを須弥山と同一視する記述も多くあります。 名誉会長: ネパールで見たが、たしかにヒマラヤは荘厳であり、天と地をつなぐ宝塔の威厳があった。今までの話で共通しているのは、ストゥーパは、「宇宙の中心」「世界の中心」を象徴しているということだね。宇宙的なスケールを持つ法華経の宝塔も、そのような意義があると思う。 宝塔品では、釈尊の分身諸仏を十方世界から集めるために三変土田がなされ、四百万億那由佗という膨大な数の国土が、一つの仏国土として統一されます。 夜の闇に光明が灯ったような、輝かしき無数の仏の集合。無量の宝石と花々で飾られた瑠璃の大地。連なる宝樹の繁り。めくるめくような黄金の光景です。その中心に宝塔が位置することになる。 宝塔は、大宇宙にそびえ立っている。大宇宙の宝を集めたかのような輝かしい姿です。その荘厳さで「あなた方の生命こそ宝の集まりなのだ」と教えているのです。その巨大さで「あなた方の生命は宇宙大なのだ」と教えているのです。 斉藤: 宝塔が空中に浮かんでいるのも、天と地を結ぶ軸のように見えます。 名誉会長: 大聖人は「虚空とは蓮華なり経とは大地なり妙法は天なり」(御書 p742)と仰せです。宝塔が浮かぶ虚空を真ん中にして、天・虚空・地の全体で妙法蓮華経であるとされている。 天地全体、宇宙全体が妙法蓮華経である。我が身も妙法蓮華経である。宝塔もまた妙法蓮華経であり、宇宙即我の壮大な真理を象徴しているのです。 また三諦論でいえば、宇宙が妙法の当体であるというのは空諦です。我が身が妙法と知るのは仮諦です。 斉藤: はい。五陰(色・受・想・行・識)が仮に和合したのが、個々の生命です。そう見るのが仮諦です。 「御義口伝」にも「見宝塔」について「宝とは五陰なり塔とは和合なり五陰和合を似て宝塔と云うなり、此の五陰和合とは妙法の五字なりと見る是を見とは云うなり」(御書 p739)とあります。 我が身が妙法蓮華経なんだと見るのが見宝塔であると。これは仮諦です。 名誉会長: 空諦そして仮諦。宝塔の出現とは中諦の妙法蓮華経に当たるでしょう。この宝塔を鏡として、「自身の宝塔を見る」のです。「自身が宝塔であると見る」のです。 斉藤: 「宝塔」とはほかでもない、妙法を信じ、南無妙法蓮華経と唱えゆく人間の生命そのものなのだということですね。大聖人は、繰り返し繰り返し、このことを強調されています。 遠藤: そうですね。たとえば —- 「日女御前の御身の内心に宝塔品まします」(御書 p1250) 「末法に入って法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」(御書 p1304) 「今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり、」(御書 p1304) 名誉会長: 阿仏房は「宝塔」の意味が知りたかった。大聖人は端的に「ほかならぬあなたが宝塔なんですよ」と教えられた。 そして「此れより外の才覚無益なり」 —- これだけ知っていればいいのだ。他の理屈や知識は「無益」なのだと。たしかに「御本尊を拝している自分が多宝の塔なのだ」とわかれば、あとは何もいらないのです。 こうして法華経を学ぶことも、その「眼目」を確認し、確信を深めるためであり、また多くの人に語るためであって、それを外れた知識は、成仏のためには「無益」となってしまう。 それを前提に「法華経における宝塔」について整理してみたら、どうだろう。 Tweet