2015年1月16日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月16日(金)08時43分44秒 大聖人は、三大秘法の教義書を完成させるために生涯を費やしたのではなく、 三類の強敵と戦いながらも、すべては万人を救うという「大願」に生涯を捧げました。 身延期の大聖人の焦点は、万年に向けて弟子を全力で育成することでした。 自身亡き後、未来に生きる民衆が幸福になっていくために、全精魂を注いで手を打っていたと思います。身延期に著された御書を詳細に見ていくと、大聖人のいう「功徳と罰」は、法華経という「法」に則して示されるより、むしろ「法華経の行者・日蓮」という「人」に即して語られることが多いように思います。 これは、なぜなのでしょうか。 一例の御文を挙げると「日蓮は是れ法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に、 軽毀する人は頭七分に破れ、信ずる者は福を安明に積まん」(九七四頁)というものです。 仏法といっても深い触れ合いがなければ、その心は理解されることはないのだろうと思います。 広宣流布という実践をしない人間が、それを実践している人間に会い、 その人が書いた著述を読んでも、その心までは読めないし、わからないのと同じです。 ましてや、たまたま法華経という経典に触れたとしても、我が身の謗法を認識することは稀です。 それだけでは悪心の人が信心を実践し体感しようとする信仰心は起こらないと思います。 しかしその仏法が、具体的に一人の人間に体現されて現れたとなると、 そこにはじめて反発や共感といった感情が芽生えてきます。 言ってみれば、仏法は人間関係の打ち合いの中で発動するものではないかと思います。 実際、大聖人という人格が現れた時、偽者は仮面をはがされ、人々は反発しました。 創価学会も同じく、三代の師匠の人格が現れた時に、大いなる反発がありました。 「今日本国・上一人より下万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり。 此の悪心の根本は、日蓮によりて起れるところなり」(一一四二頁)という表現も決して大げさではないと思います。 しかしその悪心や反発も、大聖人という人格との打ち合いの中で、その反発がいつしか大聖人への共感へ、信頼へと変わり「法華経」への信仰心に変化していきました。 そして弟子となり檀那となったのです。 Tweet