投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月16日(金)08時42分56秒  

熱原の無名の庶民たちは、おそらく大聖人と会ったことはなかったと思います。
しかし、大聖人の弟子を通してこの「大法」を知った。
農民信徒二十人が妙法を持ったがゆえに、事実無根の罪を着せられて逮捕・連行され、十七人が追放、三人が殉教――。

無名の庶民が、大聖人の説く「自行化他の南無妙法蓮華経」を命懸けで護ろうとした。
強大な権力者にどんなに脅されても「南無妙法蓮華経」を手放そうとはしなかった。
それは破ろうとしても破れぬ不動の「金剛宝器戒」が民衆の胸中に根付いた瞬間だった。

大聖人は、無名の庶民二十人が、異体同心の団結と不退転の心で、不惜身命の実践を貫く姿を見、
その大難を乗り越え、信心を貫き通す姿を目の当たりにして、三大秘法の成就を確信したのではないでしょうか。その証拠に、熱原三烈士の心は、現代に生きる同志の心の中に流れ、熱い血潮となって燃えています。

大聖人と師弟不二で戦った弟子たちの信心や、熱原三烈士の「殉教」の精神は、
時を超えて、創価三代の師匠に受け継がれています。
この事実から、崩れざる「本門の戒壇」は、すでに熱原法難期に成就していたと確信します。

歴史的に見て「本門戒壇の建立」は、日蓮門下の大きな指標として掲げられ、
広宣流布を目指す大きな目標のシンボルになっていました。
大きな歴史的意義としては、それはそれで価値があったと思います。
それが広宣流布を目指す熱き信心の波動を起こしてきたという歴史的事実は消えることはありません。しかし、時代は流動し変化の様相を呈して、いよいよ新時代の二十一世紀に入りました。

冷静に歴史を眺めれば、時の政権や権力者に左右される戒壇観は、その時代における歴史的産物でしかありません。そんないつ崩れ落ちるかわからない建造物が、大聖人の考える戒壇観であるはずがありません。比叡山の戒壇はたびたび焼かれています。
また、一国に限定した戒壇観も普遍性に欠けます。

そのように、いつかは壊されてしまうような建物や「特定の場所に縛られた」戒壇観は「本門」においては乗り越えるべき問題です。
そう考えると、戒壇堂という建物に集約された歴史的な「戒壇論」は、
二十一世紀の今日、その歴史的使命を果たし終えたと思います。