投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月16日(木)20時08分23秒     通報
● 三、「一切法空の座」p249

遠藤: 第三に「一切法空が如来の座である」とは、どういうことでしょうか。

名誉会長: 自在の智慧ということです。
すべてはつねに変化している。無常の存在である。空である。そういう世界の諸法実相を、ありのままに見て、何物にもとらわれない境涯を指しているといえるでしょう。

須田: 言葉では理解できますが、実際にはなかなか、そういう境地にはなれませんね。

名誉会長: 大聖人は「座とは不惜身命の修行なれば空座に居するなり」(御書 p737)といわれている。不惜身命の行動こそが一切法空の座に居ることになるというのです。
人間のつねとして、何かに執着し、とらわれがちなものです。例えば名声や地位などにとらわれ、それを手放したくないと惜しんでしまう。それは人間として、ある意味では自然かもしれないが、その執着をあえて乗り越え、身命をも惜しまず戦っていくということが「空座に居する」ことです。
「我が人生を広宣流布のために捧げていこう」というのが信心です。その信心に「空」の極意がある。
もちろん、それは命を粗末にするということではない。自分の尊い生命を、仏法のために惜しまず使っていくということです。

斉藤: その不惜身命から、人を救う智慧も生まれるということですね。

名誉会長: その通りだ。身を惜しまぬ自分になることが、人を救える自分になることなのです。
かつて戸田先生に「折伏をするというのは、自分自身への折伏にも通じるものですか」という質問をしたことがあった。先生は、こう答えられた。
「自分自身が南無妙法蓮華経で生きているということです。それ以外に折伏はないのです。手練手管も方法もなにもありません。ただただ、自分は南無妙法蓮華経以外になにもない!。 と決めることを末法の折伏というのです」と。
また「自分は南無妙法蓮華経だと決めるのが、最後の折伏です」とも言われていた。
青年に本当のことを教えておこうという、決然たる口調であった。
「自分は南無妙法蓮華経だと決める」一切法空、そして不惜身命の意義を、ものの見事に表現し切っています。諸君も、この言葉を手がかりに、信心の真髄を探求してもらいたい。そこに、本当の教学があるのです。