投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月16日(木)12時21分17秒     通報
● 二、「柔和忍辱の心」p244

須田: 次に「柔和忍辱の心」が、如来の「衣」に譬えられているのはわかりやすいですね。衣が寒熱から身を守るように、柔和忍辱の衣があれば、難に紛動されないということです。

名誉会長: そう。私たちの弘教においても大切なことです。どんな圧迫があろうとも、にこやかに、悠々たる境涯でいきなさいということです。
滅後の弘教においては、難は必然です。そこで「忍辱の心」が必要になる。耐え忍ぶ心です。耐えるといっても、退くことでも、負けることでもない。耐えて勝つのです。心は何があってもへこたれないのです。広宣流布は精神の闘争です。心が負けていては「忍辱の心」にはなりません。

斉藤: 大聖人は撰時抄で「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」(御書 p287)と仰せです。「身を随えられる」とは、難を受けて忍ぶことです。「心は随えられない」というのは、心では負けていないということです。

名誉会長: それが「忍辱の心」です。大聖人が佐渡に流されたのは、身をば随えられたのです。しかし、お心は「流人なれども喜悦はかりなし」(御書 p1360)との大境涯であられた。
忍辱の心とは、もっとも強い心です。真の勇気があるから、耐えられるのです。勧持品(第十三章)に「忍辱の鎧」とあるのは、その強さを譬えているのでしょう。
仏の別名を「能忍」(能く忍ぶ)という。釈尊も大聖人も「耐える人」であられた。

遠藤: 法師品では、法師が難に遭うことを強調しています。
大聖人が身で読まれた「此の経は、如来の現在すら、猶怨嫉多し。況んや滅度の後をや」(法華経 p390)の文も法師品で説かれます。

須田: 法師が難に遭う理由は、法華経が難信難解の経であるからだと説かれています。難信難解だから、釈尊の在世ですら怨嫉が多かった。まして、滅後においては、さらに難が大きい、と。

名誉会長: 「況んや滅度の後をや」が大きいのか。なぜ、仏の「在世」よりも「滅後」のほうが難が大きいのか。
「滅後」とは、仏の精神が忘れられ、宗教的、思想的に混迷する時代のことです。かりに仏を崇めているようでも、肝心の「仏の精神」は忘れ去られている。仏教の「宗派」はあっても、「仏の心」は生きていない。
「宗教のための宗教」はあっても「人間のための宗教」はない。法華経は、特にそういう時代のために説かれた経典です。
「仏の心」を忘れ去った時代に、「仏の心」を伝える法華経を弘めるからこそ、怨嫉が多いのです。人間性を失った時代に、人間性の回復を唱えきっていくのは大変なのです。

須田: その意味では、何の難もないのは本当の意味で正法を弘めていないということですね。宗門などは、戦時中も現在も、何の難も受けていない。
それに対して牧口先生以来、現在に至るまで、創価学会が難を受けきっているということは、まさに法華経を身読している姿です。学会が「仏の心」を実践しているという証明です。

斉藤: 迫害につきものなのが策謀です。釈尊の時代も、でっち上げのスキャンダルや、冤罪が絶えなかった。
悪人たちは自分たちが殺人を犯した上、その罪を釈尊の門下にかぶせることによって仏教教団を社会的に抹殺しようとさえしました。

須田: 大聖人の場合も、念仏者などの一派が鎌倉で殺人や放火を犯し、それを大聖入門下がやったと言いふらして、大聖人を佐渡へ流罪させました。この時も大聖人の教団があたかも危険な集団であるかのようなイメージを作りだすことによって弾圧したのです。いつの時代でも正法迫害の構図には似たものがあります。

遠藤: だからこそ「忍辱の衣」が放せないのですね。

名誉会長: こんな話が残っている。
一人のバラモンがいた。彼は、妻が仏教に帰依したことを快く思っていなかった。
妻が、あんまり釈尊の事をたたえるので、一度、論破してやろうと行ってみたが、かえって釈尊の説法に感心し、自分も帰依する。
これを苦々しく思ったのは、仲間のバラモンたち。さっそく祇園精舎へ押しかけ、悪口雑言で釈尊を非難した。
これを受けて釈尊は、どうしたか。

遠藤: 興味深いところですね。

名誉会長: 釈尊はバラモンの一人に尋ねた。「バラモンよ、親類や友人が、あなたの家へやってきた時に、あなたは彼らを客人としてもてなすか」 「そうだ。時には、もてなすことがある」「彼らが、出された食事を受けなければ、それはだれのものになるか」「もちろん、それは主人である自分のものになる」 「バラモンよ、そのように、あなたが私に投げつけている讒謗を、私は受け取らない。とすれば、その悪口は、あなたに戻り、あなたのものとなるであろう」

須田: まさに「柔和忍辱」にして、相手の痛いところを突いています(笑い)。

遠藤: 「柔和忍辱の衣」を着ることによって、悪口も「心に入らなくなる」わけですね。

斉藤: 入らなくなった分、悪口は、言った人のもとに戻って、当人が苦しむ(笑い)。