投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月17日(金)06時50分11秒     通報
■ 慈悲・忍耐・智慧の修行

須田: 「衣座室の三軌」について語っていただいたわけですが、如来の部屋にいて、如来の衣を着、如来の座に坐す法師とは、まさに「法師が如来に等しい」ということを言っているとも考えられます。
「如来の使」ということも、その振る舞いが、そのまま仏の振る舞いと見なされるということではないでしょうか。
一国の「大使」が、その国の意思を体現するのと似ています。
名誉会長: そうとも言えるね。

斉藤: また、この三軌は、法華弘通の大願に生き抜くなかで、法師に具わる「仏の徳」を表現したものではないでしょうか。

名誉会長: それも考えられる。大聖人は「衣座室とは法報応の三身なり空仮中の三諦身口意の三業なり」(御書 p737)と仰せです。
「法報応の三身」とは仏の徳です。簡潔に言えば、真理と智慧と慈悲です。その徳が具わるのです。
また「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は此の三軌を一念に成就するなり」(同)とも仰せです。
題目を唱え弘める修行によって、「仏の徳」が具わるのです。
信心の「一念」に、徳が成就するのです。
特別な力などなくともよい、妙法を唱える歓喜、妙法を語れる歓喜に燃えていることが、一番大事なことです。その歓喜の信心に「衣座室の三軌」は含まれるのです。
慈悲・忍耐・智慧の徳が含まれているのです。

斉藤: 法師品で「一念随喜」が強調されています。妙法を聞いて随喜するだけで、すべての衆生が成仏できるとまで説かれています。
また「是の人(=法師)、歓喜して法を説かんに、須萸も之を聞かば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟することを得んが故なり」(法華経 p387)とあります。
阿耨多羅三藐三菩提とは仏の悟りです。法師が歓喜して法華経を説く。それをわずかの間でも聞けば、それが出発点となつて、必ず成仏できると。

名誉会長: 法師自身が、法華経を聞いて歓喜の心を起こした人です。その法師が説いた法華経を他の人が聞いて、歓喜の心を起こす。その「歓喜」と「歓喜」の連鎖の中に、滅後の「成仏の道」があるのです。
大聖人は仰せです。
「日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一諦・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」(御書 p288)と。
これを、そのまま行動しているのが創価学会なのです。

斉藤: 先に、「哲学なき時代」に、「精神の指導者」として社会を照らすのが「法師」であると言われました。
創価学会は、民衆自身がこの法師です。素晴らしいことだと思います。

遠藤: 多くの既成宗教では、弘教するのは実際的には聖職者です。また大集会や、アメリカではテレビ番組を通しての布教も盛んなようです。
これに対し学会は「民衆による民衆のための弘教」です。また座談会をはじめとした少人数の集いが中心であり、一対一の対話がベースになっています。
ここに「二十一世紀の宗教」の弘教の在り方があるのではないでしょうか。

須田: そういえば、国際宗教社会学会のブライアン・ウィルソン元会長は、
池田先生との対談(『社会と宗教』)の中で、こう述べています。
「個人的な触れ合いは(中略)たしかに最も効果的な布教の方法であるように思われます」
「いまの世の中では、誰もが、たとえば広告などについては冷笑的な見方をするようになっていますが、そうした中にあっては、個人的な誠実ということそれ自体が、きわめて爽やかなものとなりえます。その結果、伝えられるべき事柄は、たとえそれが比較的無知な布教者によるものであっても、技術的には巧みでその実まったく権威ぶった情報しか伝えないマス・メディアの広告などに比べて、より十分に伝達されるのです」

名誉会長: そう、「誠実」だね。口べたでもいいのです。誠実が相手に伝わればいいのです。戸田先生はよく「折伏すれば、信用が残るよ」と言われていた。