投稿者:The logic in the place    投稿日:2015年 7月14日(火)14時58分36秒     通報 編集済
「仕組まれた創価学会批判」、まさに、学会内部の現在も権限を握る最高幹部が仕組んだ池田大作批判(笑)、それが、昭和52年問題であり、昭和54年会長退任へと導かれます。
つまり、それ(第一次宗門問題)は、この本(昭和55年)に描かれている山崎正友と原島嵩の二人組が仕組んだのではなく、今(平成27年)も権力と権限を握っている最高幹部であったというのが事実です。これを証明するために、「広布第二章の指針(第一集~第十四集)」を以後、展開します。

また、卑近な例で言えば、あの昭和53年頃から昭和57年まで、週刊誌に宗門・学会問題が掲載されない日は一日も無かったと記憶しています。そして、それ以降も延々と続き、第二次宗門問題(平成2年から)数年前まで、パラパラと週刊誌に学会批判が載りましたが、平成26年からピッタリと週刊誌(エログロ含む)やら月刊誌での学会批判は有りません。どうしてか?
実は、情報源が乙骨やら学会批判ジャーナリストの創作ではなく、学会内部の権限を握る最高幹部が週刊誌に情報を流していたことが、判明してしまい、それが元で今は、まったく水を打ったように週刊誌やら月刊誌にアホな学会批判が掲載されることが無くなりました。まあ、言い訳をすれば「公明党が政権与党で学会を護っている」からとか、「先生が倒れているからネタがない」なんておかしな理屈を言う県・区幹部もいらっしゃいますが、私は敢えて主張しませんが「宿坊の掲示板に全部載っているから」と言いたいですね(笑)。

第一次宗門問題では、およそ20万人を越える学会脱会者が生まれ、組織が疲弊しました。学会内部の最高幹部は、ここまで酷い状態(自殺・殺人・寺院放火)が発生するとは思っていなかったでしょう。
池田先生退任後(昭和54年)、法華講出身の北条会長を立てて見たものの、統率力はゼロ、終いに頓死してしまい、次に最高幹部が念願していた秋谷会長を立ててみた(昭和56年)ものの、創価学会はまさに崩壊状態と成りつつありました。学会脱会の動きは昭和59年くらいまで続いていたのです。
当時、現場で折伏弘教していた私は、煮え切らない幹部の姿勢(正邪を主張せず、初代会長やら二代会長の話ばかりする)に、「まあ仕方ないか」と諦めていました。
当時の最高幹部(昭和50年代)とは、「広布第二章の指針第8集(昭和51年)」の座談会に出席する(北条浩、秋谷栄乃助、和泉覚、辻武寿、青木亨、福島源次郎)等の者です。題して「創価学会と未来を語る」でしたが、再度読み返すと深い意味を感じます。

宗門の檀徒がガタガタ宗内で騒ぎ、秋谷第五代会長が立っても、学会組織はガタガタ。結局、池田先生の求心力を利用するしかないことがわかり、これを利用する方向へと最高幹部は方向転換していきます。矢野とか秋谷も方向転換、これに激怒した藤原行正(東京都議)は激怒して、週刊誌で第一次宗門問題が実は、「山崎・原島」による策謀ではなく、「矢野・秋谷」による池田追放の策謀によるものだったことを暴露し、昭和63年には暴力団を使って池田暗殺計画を組み(未遂)、平成元年には議員引退と同時に、学会を脱会。要するに第一次宗門問題は、戸田門下の池田追放の反乱劇だったということです。