投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月16日(金)08時39分43秒  

■時を知る

大聖人は「正・像・末」の三時を示して
「妙法蓮華経広宣流布の時刻なり。是時を知れるなり」(四四〇頁)と結論しています。
世の中が濁り、人々が生命力を無くしている最悪の今、
この現在こそ広宣流布の時であると認識することだと思います。

今この時に、志を立てて広宣流布の運動に参加するという自覚です。
透徹した志というものは、他者への同苦から生まれるものだと思います。
末法という時代に、地涌の菩薩が民衆という大地から立ち上がってくるのは、
痛みを共有できる機縁が満ちているからだといえないでしょうか。

逆に言えば、他者の痛みに同苦することがなければ「志」も立ちません。誓願も起こらない。
時とは、同苦の機縁であり、志、誓願、決意を起こして立ち上がり、広宣流布に驀進する人だと思います。

■国を知る

法華経が普遍的な法である以上、この法は日本だけに留まるものではありません。
その国の文化や社会から法華経と共鳴する部分を掘り出し、そこを強調していくことではないでしょうか。その普遍性とは、人間の中に内在する仏性だと思います。
アメリカやアラブにも文化の違いはあれど、同じ人間が生活しています。

その国の文化に通じて、その文化に生きる人間に焦点を当てて、法華経に共鳴する部分を示して、
その国の広宣流布への機縁を作っていける人――これが国を知る人ではないかと思います。

■教法流布の先後を知る

流布の「先・後」とありますが、一つは仏教伝来の歴史だと思います。
仏法が流布される過程で、どのような変化を遂げ、伝えられて来たのかを知ることは非常に重要なことです。冷静にその歴史を見ていくと、広宣流布は決して一代で完結するものではないということが分かります。
そして何より大事なことは、誰を師(先)として、誰に法を伝えていく(後)のか、という伝持の一点です。これを見定めていかないと確たる生き方はできないと思います。

「教法流布の先後を知る人」とは、師弟に生きる人ではないかと思います。
以上、五義を「人」という面から見てきましたが、
これは「師」を求める視点であるとともに、本物と偽物の指導者を見分ける視点でもあると思います。