投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月16日(金)08時38分57秒  

さて、一度ここまでのところを整理します。
天台は十如是を《法華経の根本原理》として捉え、
内観を通じて一念三千を体得することを志向したことに対して、
大聖人は十如実相を《法を弘める実践の中で五義》として捉えていたと述べました。
そして、社会に開かれた実践を通して一念三千を体得していき
「五義を知った法華経の行者」が「一念三千の体得者」であると考察しました。
そうなると、この「五義」とは何かを解明する必要があります。

大石寺・日寛の「依義判文抄」などでは、五義はどちらかといえば
信ずべき「法」とは何かを問う、視点に比重が置かれ「法」の面を重視しているように思います。
別にこれに問題があるわけではないのですが、大聖人が五義をどのように説いてきたかを見てみると、どのような人を法華経の行者というのかという「人」の面に重点が置かれているように思います。ということは一度、五義を「人」の面から見ていく必要があると思います。

ではそれを見ていきます。

■教を知る

古来から法華経を知る人は大勢います。
しかし大聖人は「法華経有りと雖も其の義、未だ顕れず」(四四一頁)と述べています。

法華経の実義を顕した人は、日本において
「伝教」以外にいないというのが大聖人の歴史認識です。
それは比叡山の「迹門の戒壇」です。
ここでいう「法華経の実義」とは、法華経を最第一として
法華経の卓越性を宣揚し、社会の中に根付かせることだと思います。

では、日蓮仏法を最大に宣揚し、
社会に根付かせたのは誰なのか、ということではないでしょうか。
その人こそ「教を知る人」であり、教の体現者、実践者のことだと思います。
そしてそれは、その人の振る舞いに現れます。
悩める友に心を砕き、勇気を与え、汗を流している人は誰なのでしょうか。

■機を知る

人の心や機根というものは、そう簡単にわかるものではありません。
大聖人は「凡師、機を知り難し」と言っています。まるで突き放した言い方です。
しかも機を知る方法は具体的に何も述べていません。

しかし、釈尊がそうであったように、大聖人がそうであったように、
創価三代の師匠がそうであったように、民衆の中に分け入り、庶民の苦悩に耳を傾け、
同苦していく実践のなかで、おのずと人々の機を体得し、人の心がつかめるようになっていくと思います。

「機を知る人」とは、多くの民衆の心をとらえて揺り動かし、
その人に信心の自覚を呼び起こせる人ではないでしょうか。