投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月13日(月)17時20分36秒     通報
■ 衣裏珠の譬え —- 目覚めた喜び

遠藤: はい。「衣裏珠の響え」は、五百の弟子が、釈尊から授記されたあとに述べた「歓喜の証」です。
五百人の阿羅漢たちは、我を忘れるほどの喜びに満たされ、仏の足下にひざまずいて敬礼します。そして、自分たちが犯した過ち、つまり、阿羅漢の小さな智慧で満足し、如来の智慧を求めようとしなかったことを悔いて、自らを責めます。
その愚かな自分たちを“貧しい流浪の人”に譬えて語ったのが「衣裏珠の譬え」です。
—- ある貧しい男が親友の家に行って、ごちそうになり、酒に酔いつぶれて寝てしまった。この時、その親友は公用で急遽出かけなければならなくなった。
そこで親友は、酔いつぶれている友人の衣の裏に「無価の宝珠」、すなわち値段のつけられないほど高価な宝の玉を縫いつけて、出かけていきました。
貧しい男は酔いつぶれて寝ていたために、そんなことはまったく知りません。目が覚めて起きてからも、あちこち他国を流浪します。
そのうちお金がなくなり、生活が苦しくなってきます。衣食のために働きますが、苦しさは変わりません。少しでもお金が入ると、それで満足していました。

斉藤: その日暮らしですね。

名誉会長: 今も精神的な「その日暮らし」の人は多い(笑い)。

遠藤: 私たちも、そうならないよう、気をつけないと(笑い)。

須田: やがて親友は、男に出会います。そのみすぼらしい姿を見て、男に言います。
「君は何と愚かなんだ。どうして、そんなに衣食に窮しているのか。私はあの時、君が安楽な生活ができるよう、また、欲しいものは何でも手に入るようにと思って、『無価の宝珠』を君の衣の裏に縫いつけておいたのです。今も、そのままあるではないか。それなのに、君はそのことを知らないで、ひどく苦労し、悩んでいる。まったく愚かだ」と。
貧しい男は、親友が教えてくれた宝珠を見て、大歓喜しました。

斉藤: “無価の宝珠とは何か”。経文には「一切智の心」であり、「一切智の願」であるとあります。
一切智とは仏の智慧です。つまり、“無価の宝珠”とは、「仏の智慧を求める心」であり、「成仏を願う心」です。
この心は、化城喩品で説かれているように、三千塵点劫の昔に、菩薩であった釈尊から法華経を聞いて植え付けられたものです。それが、かつて親友によって衣の裏に宝珠が縫いつけられたということです。“親友”とは、言うまでもなく釈尊です。

遠藤: 貧しいまま流浪し、その日暮らしに満足している姿は、小乗の教えを学び、阿羅漢の悟りに満足して、仏の智慧を求めようとしない声聞の境涯を表しています。
また、親友と再び会って、無価の宝珠のことを知らされるのは、今、釈尊から法華経を聞いたことに当たります。すなわち、今、法華経を聞くことによって、三千塵点劫の昔に起こした、成仏を願う「本願」を思い出したのです。

名誉会長: 「本来の自分」に戻ったのです。それが「声聞の目覚め」です。“無明の酔い”から覚めたのです。
キーワードは「思い出す」です。自分の原点に帰ることです。自身の生命の根源の法を自覚することです。「汝自身に帰れ」ということです。
それを「忘れさせる」のが「無明」の酔いです。天台大師が、この酔いについて重い場合と軽い場合があるとしているね。

斉藤: はい。重酔と軽酔ですね。重酔は、まったく覚えていない状態です。いわゆる泥酔といえるでしょう。軽酔は、かすかに醒めているのですが、その後、忘れてしまう状態としています。

名誉会長: 酔いの程度に違いはあるにしても、覚えていないことには変わりがない。それが無明なのです。心が無明に覆われているために、自分の生命の素晴らしさがわからないのです。