投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月14日(火)06時39分22秒     通報
遠藤: 酔いと無明。お酒の好きな人には、なるほどと、うなずける譬えかもしれません。(笑い)

須田: 酔っている人は、自分が酔っていることを、なかなか認めませんしね(笑い)。

斉藤: 起こすのも大変です(笑い)。

名誉会長: みんなだって、信心に目覚めるには、婦入部の人とかに、さんざん世話になったのじゃないかな(爆笑)。

須田: 大聖人は御義口伝で「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時無明の酒醒めたり」(御書 p735)と仰せです。
題目をあげたときの爽快さは、生命が無明の酔いから醒める喜びですね。

遠藤: 経文には「貧人此の珠を見て 其の心大いに歓喜し」(法華経 p371)とあります。この経文について大聖人は、御義口伝で「此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御書 p788)と仰せです。

名誉会長: そう。「本来の仏なり」です。
五百弟子品では「深心の本願」(法華経 p356)と表現されているが、要するに全人類を救っていこうという「大願」です。この「大願」を思い出したのです。
大聖人は「大願とは法華弘通なり」(御書 p736)と仰せです。この「大願に立つ」ことが、「宝珠を見つける」ということなのです。

遠藤: 「無価の宝珠」というと、なんとなく、何でも願いが叶う「打ち出の小槌」のようなイメージでしたが(笑い)。

名誉会長: 大願に生きることによって、他のすべての願いが叶うのです。
戸田先生は、ある会合で、信心の功徳に満ちあふれた体験発表を喜ばれたあとで、「さきほどの体験にあるような功徳は功徳のうちには入りません。
私の受けた功徳をこの講堂一杯とすれば、ほんの指一本ぐらいにしか当たりません」と、もっともっと大功徳を受けなさいと言われていた(昭和二十八年=一九五三年六月、星薬科大学の講堂で行われた蒲田支部総会)。
私も、その会合に出席し、青年部幹部として話をしたので、情景を鮮明に覚えています。戸田先生は、妙法の不可思議の大功徳を、生命で実感しておられた。
その大功徳を、全学会員に一人残らず、等しく実感させたかったのです。その慈愛を痛いほど感じました。
そのためにも、広宣流布の大願に生きよ、と叫ばれたのです。広宣流布へ働くことによって大功徳を受けさせるために、そう言われたのです。
広宣流布に働くことは、他のだれのためよりも、「自分のため」なのです。

遠藤: よくわかりました。そうしますと学会活動には、深い深い意義がありますね。