投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月13日(月)06時57分38秒     通報
■ 「人の開会」と「法の開会」

斉藤: これまで語り合ってきましたように、響喩品(第三章)に始まって、舎利弗以下の声聞が次々と成仏の授記を受けますが、これは、「救われる人」から「救う人」への革命 —- つまり、声聞が菩薩になったということですね。

遠藤: 方便品には「但一乗の道を以って 諸の菩薩を教化して 声聞の弟子無し」(法華経 p190)とあります。これは、方便品のところですでに確認した「人開会」です。
一乗の道(法華経)によって教化される衆生は、すべて菩薩であるというのです。

斉藤: 「開会」とは、別々のものと思われたものを、より高い次元から捉えて、統一することです。
開会を「法」で言えば、仏は、ただ一仏果を説くだけで、三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)という別々の教えはないとする。三乗を別々の教えと見るのは、教えを受けとめる衆生の側であって、より高い仏の次元では、成仏へのただ一つの道、一仏果を説いているだけであると統一するのです。
「人」で言えば、仏は、成仏を目指す菩薩を教化しているだけであって、教化する弟子に声聞や縁覚・菩薩の区別はないとします。この「人開会」では、仏は、すべての衆生は生命の奥底に「成仏を目指す心」「仏の智慧を求める心」があると見ている。その次元から、すべての衆生は菩薩であると統一するのです。
五百弟子品の冒頭で、富楼那は、三千塵点劫以来の釈尊との師弟の因縁を説いた化城喩品の説法を聞いて、自身の「深心の本願」(法華経 p356)を自覚しています。つまり、自分は、はるかな昔から成仏を願い、師である釈尊と共に菩薩の実践をしてきたのだと。声聞である以前に、菩薩だった。それが本来の自分であるという自覚です。この「深心」の次元で、一切の衆生が本来、菩薩であると明かすのが法華経の「人開会」です。表面の姿ではなく、いわば“生命の次元”で、衆生を平等に見て、統一するわけです。

名誉会長: その平等の“生命の法理”を明らかにしたのが、十界互具であり、一念三千だね。

須田: 人記品でも、阿難の「多聞第一」は、声聞としての実践ではなく、菩薩としての「本願」に基づくものだと明かされます。仏の侍者として法を多く聞き、伝持することによって、人々を成仏に導いていけるからです。

遠藤: 羅喉羅の「密行第一」も同じです。羅喉羅が釈尊の子として生まれ、釈尊が悟りを得てから弟子となったのは、決して声聞になったのではなく、一心に成仏を求めるための密行であると説かれます。つまり、人知れぬ菩薩行だということです。
学・無学の声聞たちも同様です。

名誉会長: このように、「すべての声聞は本来、菩薩である」と開いているのが五百弟子品と人記品です。この両品は、“声聞開会”をテーマとしていると見ることができる。
もちろん、「本来菩薩である」とか「成仏が確定した」というのは、迹門の立場からの見方です。本門(文底)の立場では、「我心本来の仏なり」(御書 p788)なのです。
迹門は、“菩薩行を実践して仏に成る”という従因至果(因から果へ、九界から仏界へ)の立場をとります。
これに対して、本門では、“久遠の仏が菩薩行を実践する”という従果向因(果から因へ、仏界から九界へ)の立場をとる。この立場から言えば、菩薩の心とは本当は、仏の心にほかならない。
また「深心の本願」を思い出すというのは、「久遠の下種」に立ち戻るということです。
つまり、仏に成ろうと一生懸命、努力してきたと思ったが(従因至果)、法華経の山に登って見れば、一気に視界が開けて、宇宙の大パノラマが見えてきた。そこでは本有常住の久遠の仏が休みなく十界の衆生を導いて菩薩行をしておられる(従果向因)。その振る舞いは久遠から三世にわたって不断に続き、変わることがない。
そして自分自身を見ると、久遠の凡夫として、仏と師弟不二である。師弟一体で広宣流布へ、菩薩行をしている。
そういう生命の深き実相を、法華経の会座の衆生に示すのが本門です。
このことについては、いずれ詳しく論ずることにしよう。