投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月12日(日)11時59分55秒     通報
■ 五百弟子品・人記品 —- すべての声聞に授記

須田: それでは、両品の概要を見ておきたいと思います。
まず五百弟子品ですが、この品では最初に、前の化城喩品(第七章)の説法を聞いて歓喜した富楼那に対して、授記がなされます。富楼那は、釈尊の弟子の中で「説法第一」「弁舌第一」と言われた人です。

遠藤: ある時、彼は、伝道の旅に向かいます。その出発前のエピソードが、経典に綴られています。同名の別人のエピソードという説もありますが、説法第一の富楼那らしい面が示されていますので、述べたいと思います。
弘教を富楼那が申し入れると、釈尊は言います。
「富楼那よ、かの国の人々は、気が荒く、ものの道理がわからず、人の悪口ばかり言うそうだ。彼らは君をあざけったり、ののしるだろう。その時は、どうするつもりか」 富楼那は答えます。
「そうしたら、こう思います。『この国の人々は、いい人たちだ。私を手でなぐったりしないのだから』と」 「それで彼らが、君をなぐつたら、どうする?」 「こう思います。『この国の人々は、いい人たちだ。私を棒でたたいたりしない』と」 「棒でたたかれたら、どうするのか」 「『私を鞭で打ったりしないから、いい人たちだ』と思いましょう」「鞭打たれたら」「『刀で傷つけられないからよい』と」「刀で傷つけられたら」「『殺されないから、よい人たちだ』と」「それでは富楼那よ、かの国の人々に殺されたら、君はどうするのか」 弟子は、きっぱりと答えます。
「自ら死を求める人間すらいます。私は求めずして、仏法のために、この貧しく、汚い身を捨てることができるのですから、大いに喜びます」と。
この答えを聞いて、釈尊は安心した。
「善きかな、富楼那よ、その決意があれば大丈夫であろう。行ってきなさい」 こうして彼はその国で、多くの人を入信させたと伝えられます。

名誉会長: 願いを成就したのですね。
彼の名前は、「満願子」「満足」等と漢訳されているが、その名にふさわしい、満足の人生だったでしょう。
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五百弟子受記品から
「仏子所行の道は善く方便を学せるが故に 思議すること得べからず 衆の小法を楽いて 大智を畏るることを知れり 是の故に諸の菩薩 声聞縁覚と作り 無数の方便を以って 諸の衆生類を化して 自ら是れ声聞なり 仏道を去ること甚だ遠しと説く 無量の衆を度脱して 皆悉く成就することを得せしむ 小欲懈怠なりと雖も 漸く当に作仏せしむべし 内に菩薩の行を秘し 外に是れ声聞なりと現ず 少欲にして生死を厭えども 実には自ら仏土を浄む 衆に三毒有りと示し 又邪見の相を現ず 我が弟子是の如く
方便して衆生を度す (法華経 p360)

仏子は、よく方便を学んでいるから、仏子がどのように修行するかは、思議することができない。衆生が劣った法を願い、大乗の智慧を畏れるのを知っているので、〔仏子である〕菩薩たちは〔仮に〕声聞や縁覚となり、無数の方便を用いて多くの衆生を教化する。また「私たちは声聞にすぎない。仏の道から遠く離れている」と語る。
〔この教化にしたがって〕多くの衆生は皆ことごとく修行を完成する。〔これらの衆生は〕劣ったものを願い、怠惰であったけれども、次第に〔機根が熟して〕仏となるのである。〔仏子たちは〕ひそかに菩薩の行を積みながら、外には「自分は声聞にすぎない」という姿を示す。欲することは少なく、生と死とを厭うと見せながら、実は〔菩薩として〕自らの仏土を浄める。また〔自らの姿を通して〕衆生に貪・瞋・癡の三毒があることを示し、また〔衆生の〕誤った見解に関わっている姿をみせたりする。このように私の弟子は、方便によって衆生を〔苦悩から〕救うのである。
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須田: 説法第一、弁舌第一というと、「話が上手」「弁舌さわやか」というイメージが浮かびますが、五百弟子品のサンスクリット本に「富楼那は四衆に法を示し、教え、ほめ励まし、喜ばせ、法を説いて倦むことがない」とありますように、表面的なテクニック、いわゆる話術の巧みさではありませんね。話がうまいというだけなら、詐欺師が一番かもしれません(笑い)。

名誉会長: 今の経文は、羅什訳で「能く四衆に於いて示教利喜し —- 」(法華経 p356)とあるところだね。
法を説くことによって、衆生を歓喜させる。そこに力点を置いた
本当に歓喜すれば、人は変わります。
富楼那の弁舌の力の源泉は何だったのか。一つは、師の教えを何としても弘めたいという「情熱」ではないだろうか。燃えるような情熱がなくては、どんなに弁舌が巧みであっても、多くの人の心を動かすことはできないでしょう。
そして情熱の源は「確信」です。
また、富楼那の人柄が誠実であったからだと思う。いわば「真心の人」です。その真心に多くの人が心を打たれたのではないか。

斉藤: 富楼那は、この品で「法明如来」の記別を受けます。人々を「法の光明」で照らすという意味であると思います。

名誉会長: 富楼那の姿は、広宣流布に励む学会員の栄光に通じる、と言ってよいでしょう。

遠藤: 富楼那への授記を聞いて、千二百人の阿羅漢たちが歓喜します。釈尊は彼らに授記しようと述べ、そのうちの五百人に授記がなされます。これが題名の「五百弟子」です。釈尊の最初の弟子である僑(きょう)陳如(阿若僑陳如)がその代表です。
阿羅漢とは、小乗の悟りを得た最高位の声聞のことです。
五百人の阿羅漢とは、おそらく釈尊教団の草創期を担った弟子たちではなかったかと思われます。
他の経典には、釈尊が五百人の弟子を伴って遊行したという話が記されています。五人に同じ如来の名前(普明如来)を与えて授記したのも、そのためかもしれません。
なお、残りの七百人への授記はどうしたのかというと、必ずしも明確には経文に示さていません。法師品(第十章)の冒頭で、法華経の会座にいるすべての衆生に授記がな
されていますので、その中に含められているのではないかと思われます。