投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月12日(日)08時17分25秒     通報
■ 「救われる人」から「救う人」へ

斉藤: はい。両品とも、題名にも明らかなように、授記が主題です。声聞への授記の“総仕上げ”の位置にあります。
天台も、方便品(第二章)から人記品に至る八品を迹門の正宗分(法華経前半十四品の中心部分)と位置づけています。
この八品は、法理的に言えば開三顕一が説かれているわけですが、ドラマとしては、声聞への授記が中心と言えます。

名誉会長: 声聞たちの「目覚めのドラマ」だね。このドラマの意義がわからなければ、開三顕一の法理も本当の意味でわかったとは言えないでしょう。
声聞たちの目覚めとは何か。それは、結論的に言えば、「救われる人」から「救う人」に変わったということです。
人々を断じて救い切るという「大願」に目覚めたのです。
声聞たちは、悪世の苦しみから逃れたい、救われたいという思いで仏の教えを求めた。仏は、その心を知って、苦しみから脱却する道として、声聞たちに、まず小乗の教えを説いた。

遠藤: 彼らの失敗は、その教えに執着してしまったことでした。

須田: 信解品(第四章)では、声聞たちが、「我々は、生死の中でさまざまな苦しみを受けて迷い、無知であったために、小法を求め執着した」(法華経 p261趣意)と告白しています。

名誉会長: そう。小法とは小乗の教えのことだね。しかし、仏の本意は小乗にはなかった。弟子たちを単に「救いを求める人」で終わらせたくはなかった。そこで、仏の本意を明かす法華経を説くのです。
求めるべきは小乗の悟りではなく、仏の智慧である。すべての人に仏の智慧を得させて、仏と同じように自在に人を救っていける境涯へと仕上げたい。それが仏の本意である、と。

斉藤: 「仏と同じ」とは師弟不二ですね。

名誉会長: その通りです。法華経を聞いて、“自分は、仏と同じく「救う人」でありたい”という「師弟不二の願い」に立った人が、法華経の「菩薩」です。
そのは同時に「仏子の自覚」でもある。“自分は、仏の子である。だから智慧という仏の財産を全部受け継いでいけるのだ”という自覚です。
先ほどラジオでの菩薩行の話をしたが、声聞たちは「仏の声を聞く」声聞から、「仏の声を聞かせる」菩薩としての声聞に変わったと言ってよいでしょう。
迹門正宗分の八品は、声聞たちが、このように人間革命していくドラマです。これまでは、舎利弗そして四大声聞が、この目覚めのドラマを演じたが、五百弟子品と人記品では、いよいよ、すべての声聞が舞台に躍りでてくる。