投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月10日(金)18時40分28秒     通報
斉藤: 同品では、富楼那の言葉として「ただ仏世尊だけが弟子たちの“深心の本願”をご存じである」(法華経p356趣意)ともあります。「深心の本願」とは心の奥底にもっている本来の願いということでしょう。
「無上の悟りを得たい」「一切衆生を救いたい」という願いを、だれもが本来、持っているということだと思います。

名誉会長: それが「仏性」ではないだろうか。法華経では「仏性」という言葉は出てこない。しかし「生命根源の願い」という形で仏性を表現しているのかもしれない。

須田: そうすると、「過去の因縁を知る」ということは、「生命の根底にある願いを知る」ことに通じ、「自己の根底の仏性を知る」ことに通じるわけですね。

名誉会長: その根源的な願いを、私たちの実感できる言葉で言い換えれば、「自他共の幸福を願う心」とでも言えようか。言ってしまえば何だ、と思うかもしれない。誰でも知っている心ですから。しかし、この心に生ききることは至難だ。煩悩、無明、欲望、エゴイズム、分断の心などが妨げるからです。
だから、この心を生ききるには、「師」が必要なのです。そのことを、長遠の時間にわたる師弟の因縁を通して、化城喩品で教えているのではないだろうか。
要は、ここでいう因縁とは「人間と人間の永遠の絆」のことです。決して、人間を離れたものではない。人間を外から縛るものでもない。
反対に、弟子の自分が、自分の生命の根本にある「成仏の因」を自覚する。すなわち久遠の「本願」を思い出す。そして、その因を仏果へと育ててくれる師匠という「縁」のありがたさを自覚するこの「最高の絆」への感謝と感動が、化城喩品の心なのです。

斉藤: 天台は、仏の「一大事因縁」について「衆生に此の機有って仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁となす」(法華文句)と言っています。
やはり弟子(衆生)を因、仏を縁に配しています。

名誉会長: そう。因と縁では当然、因が中心です。縁はそれを助けるものです。師弟の道も、弟子の自覚が中心です。弟子がどれだけ強き求道心に立つか、どれだけ強き使命感に立つか、その一念の強さに師匠が応じるのです。
それを前提にして、仏はいかなる弟子も見捨てることなく、三世にわたって営々と化導している。教育している。慈愛を注いでいる。
この大慈悲を法華経は強調していると思う。
弟子は師匠を信じ、求める。師匠は弟子を守り、鍛える。誓いを忘れた弟子たちをも最終的には見捨てない。この最高に麗しい「人間の絆」こそ、仏法の師弟です。

斉藤: 仏法の師弟は、決して上から下へという一方通行の関係でもなければ、道理に合わない封建的なものでもないということですね。

遠藤: 若干、飛躍するかもしれませんが、国際宗教社会学会のドブラーレ元会長は、「創価学会のもつ最も重要な要素」として、こう述べておられます。
「リーダーシップは、どのような組織にとっても重要ですが、創価学会の場合には代々の会長のあいだに象徴される師弟の関係性というかたちで浸透しているように思います。
組織的な団結とだけ聞くと、我々ヨーロッパ人には理解しにくい面もありますが、しかし創価学会の団結は師弟という人間の絆によって築かれたものであって、その指導性のなかに団結の大きな力を感じました」と。
学会の核にあるものを「人間の絆」ととらえておられます。

名誉会長: 鋭い洞察です。
戸田先生は「われわれの出世の因縁は、広宣流布の大旗を掲げんがためである」と叫ばれた。そのための学会の組織です。その骨髄が師弟です。
その意味で、仏法の師弟は「広宣流布へ」「仏国土へ」という「同じ目的」に向かって進む同志であり、先輩・後輩の関係の延長線上にある。両者が相対し、向かい合った形だけではなく、根底では同じ方向を向いた関係にあるのです。

遠藤: 絶対に切れない絆ということで、戸田先生が、牧口先生を偲ばれた言葉を思い出します。
「私のこのたびの法華経の難(=二年間の投獄)は、法華経の中の次の言葉で説明します。(すなわち)『在在諸仏土 常与師倶生』。倶生と申しまして、師匠と弟子とは、代々必ず、法華経の功力によりまして、同じ時に同じに生まれ、ともに法華経の研究をするという、何十億万年前からの規定を実行しただけでございます。
私と牧口常三郎先生とは、この代きりの師匠弟子ではなくて、私の師匠の時には牧口先生が弟子になり、先生が師匠の時には私が弟子になりして、過去も将来も離れない仲なのです」

須田: 戸田先生は、牧口先生の三回忌には、こう追悼されています。
「あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました。そのおかげで『在在諸仏土 常与師倶生』と、妙法蓮華経の一句を、身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味を、かすかながらも身読することができました。なんたる幸せでございましょうか」と。
ある宗教学者は、このー文にふれて、大変に感動しておられた。そして「宗教的出会いの原点が、ここにある」と言われていたそうです。

斉藤: 他の弟子が、迫害を招いたのは牧口会長のせいだとして、牧口先生を憎み、悪口を言っていたとき、戸田先生だけが「牢獄まで連れていってくださいました」と感謝されているのですね。

名誉会長: この峻厳な師弟の絆。それを自覚すれば、限りない力がわく。無限の希望がわき、無限の慈愛がわき、無限の智慧がわくのです。
日蓮大聖人は、竜の口の法難の際、殉死の覚悟でお供した四条金吾に、仰せになった。
「もしもあなたの罪が深くて地獄に入られたならば、どんなに釈迦仏が日蓮を仏にしようとなされても、従わないでしょう。あなたと同じく地獄に入ります。日蓮とあなたが、共に地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も、きっと地獄にこそおられるにちがいありません」(御書p1173趣意)
化城喩品では、こういう崇高な絆を教えることによって、弟子たちがやっと自分たちの「本願」を思い出した。根本の「使命」を思い出した。そうなれば、成仏という軌道に入ったわけです。そこで「授記」をしたのです。
これまで方便品で「法」を聞いても、譬喩品で「譬喩」を聞いても、いわば他人ごとであった。それが「自分自身のことなんだ」「私のことを説かれているんだ」とパッとわかったのです。これが大事なのです。
戸田先生当時、どの学会員も皆、貧しかった。しかし先生は、「貧乏人と病人の集まり」とさげすまれた人々に対して、「あなた方こそ、法華経に説かれた地涌の菩薩なのですよ」と繰り返し、繰り返し、忍耐強く教えてくださった。
また学会員は「如来の使」であり「大聖人の分身」であるとまでたたえられて、「凡夫の姿こそしておれ、われら学会員の身分こそ、最尊、最高ではありませんか」と呼びかけてくださった。
この先生の言葉通り、久遠の使命を「確信」した人は、誇りも高く、先生とともに「広宣流布の大道」を突き進んだ。
それはすなわち「成仏の大道」です。自身の久遠の「本願」を思い出し、自覚する道だったのです。
化城喩品は迹門であり、法義の深さは違うが、自分自身が壮大なる「三世の師弟のドラマ」の主人公なのだと教えた点で、通じるところがあるのではないだろうか。