投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月11日(土)07時42分14秒     通報
■ 化城宝処の譬え

斉藤: 化城喩品では仏と在世の弟子たちとの因縁を説いた後、さらに「化城宝処の譬え」が説かれます。

須田: 譬喩の題材になっているのは砂漠を旅する隊商の一行です。
宝のある場所(宝処)を目指して五百由旬もの険しい遠路を、一人の導師に導かれた隊商が行きます。しかし、途中で人々は疲労の極に達し、もうこれ以上進むことはできない、と導師に言います。ここで引き返しては、これまでの苦労が無駄になってしまいます。すばらしい宝を捨てて、なぜ帰ろうなどというのか、と人々を憐れんだ導師は、三百由旬を過ぎたところに神通力によって一つの城(都市)を作り、あの城に入れば安穏になれると励まします。この言葉を聞いて歓喜した人々は進んでその城に入り、疲れ切っていた体を休めました。人々が休息を十分にとったことを確認した導師は、その城をたちまちに消し去り、あの城は、あなたがたを休息させるために私が作った幻の城に過ぎない、真の目標である宝処は近い、と説くのです。
導師が見せた幻の城(化城)とは、仏が衆生を導くために説いてきた三乗の方便の教えを譬え、宝処とは衆生が最終的に目指すべき一仏果を譬えています。
特に二乗の悟り(化城)は方便で、仏の無上の悟り(宝処)のみが目指すべき真実の悟りであることを明かしています。

遠藤: 誰もがイメージできる、わかりやすい譬えですね。人々は三乗の教えに安住しがちでしたが、仏は低い境涯でよしとする心を打ち破って、一仏果という真実の目的を示しました。そのことが幻の城を仮に作って、さらにそれを消滅させるというところに表れています。

名誉会長: その通りだが、しかし、それはまだ一往の義です。法華経の文だけを読めば、「化城を去ってその後に宝処に至る」と取るのが自然だが、日蓮大聖人はそのような解釈からさらに進んで、化城と宝処は別々ではなく「化城即宝処」であると仰せです。

須田: 御義口伝の次の御文ですね。
「十界皆化城・十界各各宝処なり化城は九界なり宝処は仏界なり、化城を去つて宝処に至ると云うは五百由旬の間なり此の五百由旬とは見思塵沙無明なり、此の煩悩の五百由旬を妙法の五字と開くを化城即宝処と云うなり、化城即宝処とは即の一字は南無妙法蓮華経なり念念の化城念念の宝処なり」(御書 p732)

斉藤: 化城を方便、宝処を真実として別々にとらえた場合、方便は手段、真実は目的ですから、手段によって目的に到達するという発想になります。それに対して「化城即宝処」ととらえる場合は、手段の中に目的が含まれているということになります。

遠藤: 目的と手段を別々なものととらえた場合には、あくまでも価値があるのは目的であって、手段は二義的なものとなります。目的が達せられるならば、途中の過程はどうでもいいということになりがちです。

名誉会長: 仏界を目的とするならば、九界はそれまでの過程となる。しかし「九界を脱却して仏に至る」という発想では、九界と仏界は相容れないものとなり、九界即仏界にならない。それは、御義口伝に示されているように、三悪(見思惑・塵沙惑・無明惑)を断じて、悟りに至るという爾前権教の考え方です。
法華経の本意は九界即仏界、方便即真実ですから、化城と宝処は別々のものではない。
化城即宝処なのです。
その立場に立てば、実は過程がそのまま目的である。つまり、仏道修行の果てに成仏があるというのではない。
仏法を行じ、弘める振る舞いそのものが、すでに仏の姿なのです。

須田: 日寛上人が「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(六巻抄 p22)といわれているのと同じ意義ですね。

名誉会長: そうだね。人間ではない、「超人」的な仏がどこかに存在するというのではない。大聖人が「仏とは九界の衆生の事なり」(御書 p717)と仰せのように、妙法を持ち、弘める凡夫が実は仏であるということが大聖人の仏法の真髄なのです。
仏の境涯とは、一つ一つの振る舞い、一瞬一瞬に仏の智慧と慈悲が現れているということです。まさに「念念の化城念念の宝処」なのです。

斉藤: そしてまた「即の一字は南無妙法蓮華経なり」と仰せられていることが重要ですね。九界の現実の上に仏の境涯を現していく、その原動力が南無妙法蓮華経であるとの仰せですね。

遠藤: 化城即宝処の法理に関連して、先生がかつて「広宣流布とは流れそれ自体である」と言われたことを思い出します。
私たちは、広宣流布とは大多数の人が正法に帰依したという一つの到達点をイメージしていたのですが、先生はそのような発想を超えて、仏法弘通の実践そのものが広宣流布であると教えてくださいました。
また先生は戸田先生との出会いを通して入信される際、「いつかは目標に通じる歩みを一歩々々と運んでいくのでは足りない。その一歩々々が目標なのだし、一歩そのものが価値あるものでなければならない」(エッカーマン著『ゲーテとの対話』〈上〉山下肇訳)というゲーテの言葉を引いてその時の心境を述べられたそうですが、化城即宝処の法理は、このゲーテの言葉を思い起こさせます。

名誉会長: 広宣流布を理想が成就した時点ととらえることも無意味ではないが、やはり、仏法弘通の息吹そのものが大切であるということを示しておきたかった。
“途中”はすべて“手段”だと考える人間が出てきてはいけない。そういう人は、目的のために人間を手段にし、多くの犠牲を生んだ、従来の革命運動の過ちを犯してしまう危険がある。
仏法は、あくまでも「人間のための宗教」です。どのような場合であれ、人間を手段とし、犠牲にするようなことがあってはならない。これが仏法者としての私の信念です。
前進するためには、目標という「化城」を設定しなければならない。しかし、その「化城」に向かっての前進、行動は、深く見れば、それ自体、仏の所作なのです。その舞台が、すでに「宝処」なのです。

斉藤: 成仏といっても双六の「上がり」のようなものではないですね。最終的な到達点があるというように説くのは、やはり一つの「方便」であって、実際の生命は生きている限り動いているのですから、動かない到達点があるというものではない。広布のために戦い続けていくことそれ自体が仏であるというべきですね。

名誉会長: だから、すべての活動を楽しんでいくことです。苦しみきった仏の所作などない(笑い)。「さあ喜んで、広宣流布の苦労をしていこう」「さあ、またこれで福運がつく」「また境涯を広げられる」と喜べる自分になれば、それ自体、仏界が輝いている証拠でしょう。

遠藤: 反対に、「ああまた次の目標か」(笑い)と、グチをこぼしているのでは、「化城即宝処」になりませんね。

名誉会長: グチをこぼすのも楽しい境涯になればいい(爆笑)。生きている限り、何か問題があるのは当然です。それをいちいち一喜一憂していたのではつまらない。
目標に向かって、懸命に挑戦する、ひたぶるに戦う。歯をくいしばって道を開いていく振り返ってみれば、その時は苦しいようでも、実は一番充実した、人生の黄金の時なのです。三世のドラマの名場面なのです。
大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は化城即宝処なり我等が居住の山谷曠野皆常寂光の宝処なり」(御書 p734)と仰せられています。これはまさに、妙法を持ち、行ずる私たちの境涯を教えられています。
いずこにあっても、いかなる境遇にあろうとも、私たちの根底は「歓喜の中の大歓喜」(御書 p788)なのです。