投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月10日(金)14時10分19秒     通報
■ 十六王子の大通覆講

須田: 次に、いよいよ大通智勝仏の出家する前の子どもであった十六大の王子が登場します。その中の十六番目の王子が釈尊です。王子たちは、父が成仏したことを聞き、父のもとに向かいます。そして、説法を要請します。
また、十六王子だけではなく、四方(東西南北)、四維(東南・南西・西北・北東)、そして上・下の十方の世界の梵天が、こぞって、大通智勝仏の説法を請います。いわゆる「梵天勧請」ですが、それが宇宙大の規模でなされ、その様子が詳しく説かれています。その中で、「救一切」「大悲」「妙法」「尸棄」という四人の梵天王の名前が挙げられています。「尸棄」は代表的な梵天王の名ですが、それ以外は、通常のインド神話の中では登場しません。「救一切」「大悲」「妙法」などの名が挙げられているのは、衆生を救済するために、大慈悲で妙法を説き弘めていく仏の出現を待つ心を表しているのではないでしょうか。

名誉会長: そうでしょう。大通智勝仏が出現する前は、衆生は苦悩し、時代は行き詰まっていた。経文では、その閉塞状況を「冥きより冥きに入って」(法華経 p316)と表現している。人々は闇から闇へという悪の流転を止める仏の出現を生命の奥底では求めていた。その心が表されています。
戸田先生もよく「商売でも何でも、民衆が求めているものが広まるのです。広宣流布も民衆が今、妙法を求めているから、必ずできるのです」と言われていた。

遠藤: 十六王子や梵天の要請に応えて大通智勝仏が説法を始めますが、その時、最初に説いたのは四諦および十二因縁の教えです。これを聞いて多くの声聞衆が誕生します。
しかし、十六王子は、四諦・十二因縁の説法に満足せず、仏の真実の悟りを説かれるよう、さらに求めます。

名誉会長: 四諦・十二因縁の法は、仏の悟りの一面を示した方便の教えです。いろいろ言うべきことはあるが、端的に割り切って言えば、これらの教えの基本は“苦しみの原因である煩悩を滅して、安穏な境地を得させる”ことにある。しかし、仏の本意は、自分が得た無上の悟りを得させることにあります。そこで、十六王子という人を得て、かつ、時を待って法華経を説き、本意を明かすのです。

斉藤: 大通智勝仏は八千劫の間、法華経を説いた後、さらに八万四千劫の間、禅定に入ったと説かれます。そして菩薩となった十六王子は、大通智勝仏が禅定に入っている間、また、その後も、仏と同じく法華経を説いていきます。これがいわゆる「大通覆講」です。覆講とは、師が説いた法華経を再び説くという意味です。

名誉会長: 大通智勝仏と十六王子が説いたのは、どちらも同じ法華経であった。十六王子は、まさに師弟不二の道を歩んだのです。

須田: 十六王子は菩薩として法華経を説き、それぞれ無数の衆生を教化しました。これらの衆生は、それぞれの師である菩薩とともにさまざまな仏の国土に生まれ、師の化導を受けます。有名な「在在諸仏土 常与師倶生(在在諸仏の土に 常に師と倶に生ぜん)」(法華経p351)とは、このことです。

遠藤: そして最後に、釈尊は、十六番目の王子が釈尊であり、その教化された衆生が、今の声聞たちである、また滅後の声聞であると明かします。
そして、声聞たちに、こう語りかけます。
「私は十六番目の菩薩として、かつてあなたがたのために法華経を説いた。このゆえに方便を用いてあなたがたを導き、仏の智慧に向かわせてきたのである。この“本因縁”を以って、今、法華経を説いて、あなたがたを仏道に入らせるのである」(法華経p351趣意)と。以上が釈尊と声聞たちの「宿世の因縁」です。
方便品や譬喩品の説法を領解できなかった富楼那、阿難などの声聞は、この化城喩品の因縁を聞くことによって初めて得道し、次の五百弟子受記品(第八章)、授学無学人記品(第九章)で成仏の授記を受けることができました。

名誉会長: 釈尊と声聞たちとの深い深い「結び付き」が明かされてきたわけだね。その根源は三千塵点劫の昔、大通覆講の時に、釈尊から法華経を聞いたことにある。

斉藤: それが「下種」ですね。

名誉会長: そう。その時、声聞たちは法華経を聞いて、仏つまり大通智勝仏と同じ無上の悟りを得たいという「願い」を生命の奥深くに持った。「求める心」が起こったのです。
五百弟子受記品(第八章)では、声聞たちが「世尊は長い間、常に私たちを憐れんで教化してくださり、“無上の願い”を種えてくださった」(法華経p372趣意)と、言っている。

斉藤: 下種されたとき、生命に「無上の願い」が植えられたのですね。

名誉会長: 「無上の願い」とは、仏の無上の悟りを自分も得たいという願いでしょう。それを得られるというのが、法華経の教えでもある。
仏の無上の悟りとは衆生を救う慈悲と智慧の顕現ですから、それは「仏のように一切衆生を救いたい」という願いでもあるのではないだろうか。